ジョバンニ・パイジェッロの『セビリアの理髪師』を聞いている。パイジェッロは生前自己の高い評価をほしいままにしたが、今では音楽学者かスタンダールファンしかその名を知らない。彼の音楽は今の感覚からするとあまりに素朴だ。とくにわれわれの耳にはロッシーニの鮮烈な『セビリアの理髪師』の音が染みついているから、余計にそういった印象を受ける。しかし、パイジェッロの音楽には「平凡な古典派」・「ロココ趣味」のよき部分が凝縮されており、われわれは旋律とハーモニーの美しさをそこに見いだすことが出来る。
ロジーナが登場する際のアリアの素朴な美しさ、アリアの後半部分となるロジーナとドン・バルトロとの二重唱の滑稽さ。ここにパイジェッロの音楽の特色が凝縮されている。パイジェッロの描くロジーナは可憐だ。まさにそこをスタンダールが非難した。ロッシーニのロジーナは活発すぎると。ロジーナは籠の鳥なんだから、あんなに才気煥発なのは物語の整合性を欠くと。続くアルマヴィーヴァ伯爵のアリア"Saper bramate"の美しさもパイジェッロらしさに溢れている。ちなみにモーツァルトはこの伯爵のアリアに着想をえて『フィガロの結婚』のケルビーノの有名なアリアを書いている。
パイジェッロの音楽を聞いていると、なにか透明な印象を受ける。透明な印象というのはどういうことなのかぼくのつたない文章ではうまく表現できない。ラマチャンドランは一部の人間の脳は音と色を結びつけると言っているから、ぼくもそういう人間なのかもしれない。なにか透き通った透明な感じが目の前に広がる。