ペリカンの万年筆は書きやすいけど、インクがすぐになくなる。2、3日でカートリッジが空になった。
安いから同じ型で他の色のも買おうと思って今度は有隣堂に行って買ってきた。緑。かなりかわいい。インクの出方が前に買った赤いのとぜんぜん違うのはどちらが正常なんだろう。緑のは書くときに、力が要る。インクも薄い。安物の万年筆なんてこんなものだと諦めるべきか、有隣堂に行って見てもらうか、どうでもいいことを悩んでいる。
万年筆なんて買ったのはある本のサブノートを作ろうと思ったからだ。書き写すなんて、無駄で馬鹿げたことだと思っていたんだけど、マルクスは『経済学・哲学草稿』でアダム・スミスの著書を丹念に引用して、研究している。ほとんど抄本といった感じだ。
それに、尊敬する丸山先生は、師の原稿を必死に清書しているうちに、文章の書き方を覚えたという。
そういえば、長唄だってそうだった。小三郎全集を耳にタコが出来るほど聞いた。息づかいや、勢い、間など、天才の演奏だから当然自分では再現出来ないけれども、知らないところはないんじゃないかというほど聞いていた。重箱の隅をつつくような細かいところまで。浄観師のノリの変化、かけ声などは、なにか芸術的な意図があるに違いないと特によく研究した。
そしてぼくが演奏するときは、自分が浄観になった気で弾いていた。演奏前に一杯やるなんてことまでまねしたことがある。
そんなこともあって、文章の美しい人の学術書のサブノートをペリカンの万年筆でしこしこと書くのが、最近の楽しみ。
北海道にとてもステキな知り合いがいる。彼女は詩人だ。たぶん本人はそんなことを考えていないんだろうけど、そんなこと考えていないから、ステキな詩人でいられるんじゃないかな。ぼくはあんまり考えすぎて、ロクな文章を書けない。いや、あんまり考えてはないんだけど。ただ、少年時代、三島由紀夫やポオにあまりにも傾倒しすぎて、文章を書くときに、構成面での形式美とか、形容詞だとか、そういったものに対して、つい身構えてしまう。もちろん、そんなものはこれっぽっちも成功していないんだけど。
彼女のコトバはどこから出てくるのだろう。こういった感性をいつまでも保持してほしいと、おっさんのぼくは願う。
だって、ぼくなんかになると、もうそこまで考えないよ。加齢って良くもあるけど、悲しくもある。
ぼくは猫のようにひがな眠って暮らしているので、1日1日が過ぎていくのをとても早く感じる。気付けば、もう、8月も終わりじゃないか。いろいろとやろうと思っていたんだけど、9割がた出来なかった。猫のように寝ているのでは、出来るはずもない。
これで、寅さんのように、だからどうしたんだというような態度を取れれば、いいんだが、小心者のぼくは日に日に自分が呆けのようになっていくのが怖い。その怖さといったら、あまりに怖くてまた眠ってしまうくらいだ。
いや、ぼくはいい年をこいて、アリストテレスのようになりたいんだ。しかし、現実はどうだろう。アリストテレスのように明晰なる頭脳もなく、ぼくにあるのはひどい厭世感と怠惰のみだ。日進月歩という言葉があるが、日に日にぼくの好奇心は過酷な現実の前に衰えていく。
ある友人はすでに一角の者になっている。ぼくは彼をよく理解出来ないが、それでも世間様は彼のシニフィアンだとかエクリチュールだとかよく分からないどこかで聞いたことのあるようなないような言説を認めているようだから、立派なものだ。一方のぼくはといえば、猫のように寝て、一応はハーバーマスなんかを手にしながらも、すぐに投げ出して、布団のなかに潜り込んでしまう。潜水士というか潜綿士。なんて読むのか分からないけど。
ぼくのライフスタイルには長期の休みが一番合う。ライフスタイルなんて大げさなものじゃないんだけど、生活習慣というか、日々の暮らし。近代から始まったこの資本主義的生活習慣はぼくには合わない。願わくば、ぼくはなにもしていたくない。何もしないで、猫のように、ただひたすら、寝ていたい。
いつか書いたかもしれないが、ずっと寝ていたいというこの気持ちは、ちょっとした自殺願望だ。睡眠と死とが同じものであるのかは、もちろんぼくには分からないけれども、そして死を経験した者が生きているというのは背理だから誰にも分からないはずなんだけれど、現実的な事柄からの逃避という意味で、睡眠と自殺とは共通している。
潜在的な自殺願望、これのせいでぼくは寝ていたいのか、これまたぼくには分かりかねるんだけど、覚醒時より夢が楽しく、そして睡眠自体がもたらす快楽の大きさは紛れもない事実だ。もちろん、起きているときだって楽しいこともあるし、夢を見ているときだって悪夢のこともある。しかし、睡眠時の体のなんとも言えない心地よさ、様々な幻想を体験させてくれる夢、これらに抗うことは難しい。
休暇中は好きなだけ眠っていることが出来る。眠っても眠っても足りないぼくはこの短い休みが永遠に続けばいいなと思う。
また、腹痛で病院に行った。ここしばらく治らない。トイレに何回も行くので、外出できない。待合室で自分の番を待っていると、おじいさんが診察室から出てきた。
どうしても、行かないとだめですか。
最初、顔を見たときから様子がおかしいのが分かりました。もう、救急車来ますよ。
私も一緒に行くんですね。
そうです。
じゃあ、お隣さんに電話しないと。
電話番号わかりますか。
いや。
では、向こうに着いてから電話してください。
おじいさんは妻の具合が悪くて、この病院に連れてきたらしい。しかし、ここでは対処が出来なく、救急車を呼んだようだ。痩せて背が高いおじいさん。度の強い眼鏡をしている。大きな眼鏡だ。のども腕もしわで皮が余っている、あれはなんと言うべきか、老人にはよくあるんだが。おじいさんは妻が救急車で運ばれることにさほど動揺していないように見えた。おじいさんはトイレに行った。チャックが開いていた。その細い体格より幾分大きめのスラックスをはいているので、チャックが開いていることがずいぶんと目立つ。閉め忘れたチャックが、動揺をあらわにはしないその動揺を示しているように見えた。ぼくはおじいさんに声をかけようとしたが、そのおじいさんを見ていて、激しい心の動きを覚えていたので、なんともしかねた。
ぼくはその激しい心の動きがなんなのか、考えていた。老夫婦を見て哀れな気持ちになっていることに対して、非常に気を害した。哀れ!これほど、嫌なものはない。哀れを感じるということはぼくが優越的な地位にいることを示している。なんで、ぼくなんかが、このおじいさんに哀れを感じることが出来るのか。出来はしない。しかし、哀れというか、なんとも言えない心のざわめきを感じていることは確かであり、この心の動きをどう表現すべきか。
やはり、おじいさんを見ていた中年の男性がおじいさんのチャックを直した。おじいさんはその前に会計をしていた。受付の女性は気付きながらなにも言わなかった。中年の男性は当然のことをするように、自分の父にするように、おじいさんのチャックを直した。感謝を求めるとかそういう感情的なものを抜きに。男性はチャックを直した後、連れの若者と冗談を言い合っていた。
そこでぼくはまたおそろしく嫌な気分になった。
帰ってくると、薬を飲んで横になった。お腹がふくれてしょうがない。苦しくて少し寝た。


いる猫みたいにずっと寝ていたい。そして、実際そうしていることも多々ある。猫っていうのはなんであんなに寝ていることが出来るのだろう。ぼくがずっと寝ていると、顔はむくむし、頭痛はひどいしで、うんざりするんだが。イリヤー・イリッチ・オブローモフ!ぼくはほんとにあんたみたいだよ。ハムレットじゃない。ハムレットのぐずぐずしているところはどこか高潔さを感じる。漱石の登場人物でもない。彼らのぐずぐずしているところもなにか訳を感じる。イリヤー・イリッチのぐずぐずしているところはただただ、彼のだめさからだ。彼にも美点はある。それはしかし、彼のだめさと裏腹なものだ。彼は優しい、しかしそれは彼が優柔不断で問題を表面
化したくないからだ。彼は知的だ、しかしそれは彼がただたんに現実的でないからだ。このロールカーテン、ぼくはこれを何百回と見たことだろう。このロールカーテンをぼけっと見ているとき、ぼくはひどい憂鬱にとらわれている。


やっと梅雨明けらしい天気になった。天気はいいけど、ぼくの心はいまだ梅雨はれやらぬなんとか。
テスト勉強しなくちゃいけないんだけど、こういう時に限って他のことをしたくなったり、せざるをえなくなったりする。まあ、ありがちなことだ。
なにか自分のしている勉強がとても浅薄なものに感じられてしょうがない。一方ではカントに関心がある自分がいれば、一方ではなんていうのだろうソフィストになるべく勉強せざるをえない自分がいる。私たちはなにを認識しうるのか、そんな途方もない問題から、不動産の登記についての知識までの途方もない道のりというか、溝。そして不動産登記に関心を持つ我が友人たちは、たいてい私たちはなにを認識しうるのか?などという問題に興味がない。興味がないというのは正確ではない。そんなことは考えたことも、脳裏によぎったこともないのだ。
ぼくの尊敬する先生は根源的な問題と現実的な問題をうまくリンクさせている。ぼくもそうなりたいんだが、まあ無理だろう。憂鬱がぼくからすべてを奪う。
サイゼリヤじゃなくてグラッチェガーデンでオリジナルのピザを注文できるサービスが始まった。オリジナルって言ってもいくつかの中から好きなトッピングを選ぶだけなのであまり楽しくはないけど。トッピングも納豆とか不思議なものはない。ありがちなキノコのソテーとかそういうの。で、料金が規定のピザより若干高い。上手い商売を考えるもんだ。グラッチェガーデンという名前も変だよね。イタリア語と英語が混ざっているし、グラッチェじゃなくてグラッツィエだ。
それはともかくも、グラッチェガーデンで、カントの『純粋理性批判』の平凡社ライブラリー版を読んでいた。岩波文庫版はあまりにも読みにくい。『純粋理性批判』は原文が相当ややこしいみたいなので、訳すのも大変なんだろう。それにしても岩波文庫版は『純粋理性批判』グラッチェガーデン版といった感じだ。平凡社ライブラリー版は第一版と第二版とが併記されているのもおもしろい。
「ところで、形而上学においてまだ学の確実な道が見いだされえないのは、何によるのであろうか?そうした道はおそらく不可能なのだろうか?いったいどうして自然は、理性の最も重要な要件の一つとしてこの道を探るよう休みなく努めることで、私たちの理性を悩ましてきたのだろうか?」(上巻・47頁)
こんなことに悩んでいるのは古代ギリシャ人とドイツ人とその他ごく少数の人たちだけだ。
今日も眠れない。昨日夕方まで寝ていたから当然かもしれないけれど。
昨晩、服部君と飲んできた。相変わらずの深いため息。まあ、誰でもため息をしそうなアクシデントがあったんだけど。しかし、彼は最近本当についてないな。なにかしようとすると、変な人に妨害される。
語っているうちに彼は髪の毛をくしゃくしゃしだした。三島はもうほとんど制覇したんですよね。三島由紀夫は『潮騒』とあと一冊で読み終わってしまうらしい。ドストエフスキーは?読みました。紙をくしゃくしゃにして、深いため息をつきながら、ダークな話題を語る服部君はドストエフスキーの小説の登場人物のようだった。ソーニャのお父さんみたいな感じ。
次はカミュを攻めるらしい。
ぼくのおすすめは『オブローモフ』。
おごってくれて、ありがとう。今度は歌舞伎町にでも繰り出しましょう。