›7 31, 2005

本棚

Posted by figaro;cellphone at 05:12 / Category: 携帯電話からの投稿 / 0 Comments / 0 TrackBack
眠れない。外は明るくなりはじめ、蝉が鳴き、雀が鳴いている。これを書くのにパソ コンを立ち上げようかとも思ったが、それもだるい。本を読もうと思い、ケルゼンの 『法と国家』を手にしたが、数行読み、枕元に置いた。ケルゼンは国際裁判所による 国家間の平和を考えているようだが、そういった問題を考えるにはぼくはまだ知識が 足りないように思えたからだ。すると、他の本に手が延びる。ケルゼンを読むにはこ れくらいのことを知っていたほうがいいのじゃないかと思う本に。そうして、循環し ていく。思うに、この本棚が悪いんじゃないか。この乱雑な本棚をなくしてしまい、 手元に一冊だけ置いておけばいい。それはそうと、寝なくちゃ。蝉たちは活動を始め 、ぼくは休息をとる。

›7 29, 2005

みどりモス

Posted by figaro;cellphone at 21:19 / Category: 携帯電話からの投稿 / 2 Comments / 0 TrackBack
最近、モスバーガーの看板が赤からみどりに変わってるのを見かける。ニュースで見 たから知ってたんだけど、ファミレス化して客単価を上げようということらしい。こ のカフェラテも席まで持って来てくれた。セルフじゃなく、サービスも売りますよと いうことのようだ。水まで付いてきてほんとにファミレスみたい。ところで、ここは 横浜駅に近いのになぜかいつも空いている。

›7 27, 2005

論理学

Posted by figaro at 07:42 / Category: 日記 / 0 Comments / 0 TrackBack

 友人Mの勧めでカール・ポパーの自伝『果てしなき探求』を読む。
 第4章「本質主義に関する長い余談」の「いかなる(トートロジカルでない)言明、たとえば理論t、の内容も無限である。その理由はこうである。ペアでは相矛盾し、ひとつづつではtを導出しない、諸言明a、b、cの無限のリストがあるとする。そうすると、『tまたはaまたは両者』という言明はtから導出でき、それゆえtの論理的内容に属する。同じことは、bについてもいえる。・・・・したがって、tの論理的内容は無限でなければならない。」ここで、突っかかってしまい、なにが言いたいのか分からず、ポパーもそのあとすぐ、この「論証は取るに足らぬものである。というのも、それは論理学上の(非排他的な)『または』の瑣末な操作にもとづいているからである。」と述べているし、本を置いた。
 必要があり、最近ぼくも論理学を少しだけ学んだ。現代論理学の主流である記号論理学では、日常言語の曖昧さを排するために、文章を記号を使って表現する。記号論理学によると真偽を論じうる文章(命題)は次の5つのみの論理語で記述することが可能である。
 1.否定(・・でない)
 2.連言(かつ)
 3.選言(または)
 4.条件(ならば)
 5.同値(pとqは同値である、というふうに使う)
 たとえば、「かれは演奏家であるが芸術家ではない」は「かれは演奏家である」をP、「かれは芸術家である」をQと記号化し、「PかつQでない」とする。「あなたが生きているかぎり、わたしはあなたのそばを離れない」は「あなたが生きている」をP、「わたしがあなたのそばを離れる」をQと記号化し、「PならばQでない」とする。
 なぜこのようなことをするのかというと、「かれは演奏家であるが芸術家ではない」という命題(真偽を論じうる文章)は、「かのじょは美しいが才人ではない」などのように無限に考えうる諸命題と論理的に同じ構造をもつからである。演奏家とか美しいとかいった日常語を排し、記号化することによってその真偽をより容易に判断することができる。すなわち、「PかつQでない」が全体として正しいと言える場合は、Pが真で、Qが偽の場合だけだ。
 ポパーの上記の文章は3番目にある「または」を用いて、ある任意の理論が無限の内容を持つものであることを証明したものだが、いったいこんなことにどんな意味があるのか分からず、Mに聞いてみたところ、なんとなく要領はつかめた。
 ところで、あたかも英語を習いたての中学生がTシャツかなにかに書いてある変な英語を見付けて喜んでいるかのように、論理学を少しかじったぼくも論理がぶっとんでる文章を見付けて喜んでいる。
 7月4日付けの産経新聞の第一面に石原慎太郎の「日本よ」という文章が掲載されていた。石原慎太郎はいつもぶっ飛んだことばかり言っていて、前から好きだったんだけど、この文章もやはりぶっとんでいる。
 「靖国問題」についての論考で、まず、こう言う。「『靖国』は・・それを必要とする者にとってはいわば本質的価値の表象であって、歴史への解釈云々といった次元の価値観で左右されるものでありはしない。・・敗者勝者の言い分それぞれあろうが、それが嫌な者、見解を異にする者はただ靖国に行かなければいいのだし、他人事と黙っていればいい。」ここでも、本質的価値の表象とか、引用していないが「時代や立場を超えて垂直に貫かれていくべき信条の唯一の証し」とか意味の分からない言葉が羅列されており、どういうことなのか聞いてみたいが、もっと不思議な箇所がある。続けてこう述べる。「『靖国』は彼女の人生を支える芯の芯なるもの、心意気の象徴としてあったに違いない。それを誰を、何が無下に否定できるというのだろうか。」そういう人々がいることはぼくも知っている。たしかに、そういう人々に「靖国」に行くなと言うのは、まさに非常識、破廉恥、愚劣な行為だ。
 ところが、ここで議論がすっ飛ぶ。個人に「靖国」に行くなと干渉することはおかしい、だから、首相も「靖国」に行くべきだ、中国に干渉されるべきでない。はて?すぐに分かるように、個人のはなしと、首相のはなしとでは次元がまったく違う。首相が「靖国」に参拝することが問題になっているのは外交上の懸念や、憲法の政教分離原則と抵触しないかといった事柄である。彼女が「靖国」に行くこととはまったく別のはなしで、彼女のいわば「信仰の自由」にまつわる情緒的なエピソードは首相が「靖国」に行くべきかどうかの理由にはまったくならない。
 そもそも、彼女が「靖国」に行くことを阻むのはおかしいと彼女の「信仰の自由」を強く擁護しながら、行きたくない人は黙ってろと言い、靖国や護国神社に親族をまつられて、とても困っているキリスト教徒などもおり、裁判にまでなっているが、そういう人々の「信仰の自由」は「黙ってろ」でどうでもいいようで、国家神道を復活すべきだとの主張が裏に見え隠れする。
 文章がとてもうまいので、ついつい納得しがちだが、考えてみるといろいろと疑問の湧く不思議な人だ。また、そこが魅力なのだろう。


›7 13, 2005

名前

Posted by figaro at 02:27 / Category: 日記 / 40 Comments / 0 TrackBack

 たびたびの更新遅れ申し訳ございません。
 このごろ、ちょっとやることがあるので。それに、ものにもよるんだけど、ブログの記事を書くのは時間がかかることが多い。それというのも、ぼくは自分のブログがたんなる日記ではなく、なにか「散文詩」の集成みたいなものにならないだろうかと考えているので(このことは以前にも書いた)、ちょっとした出来事を書くのにも身構えてしまって、なかなか書けない。まあ、このことは今日書きたいことではないので、省く。そして、散文詩が成功しているかどうかということも省く(このことに関してはぼくはたいへん懐疑的なのだが)。
 今日はさっき風呂場で考えていたことを、忘れないうちにメモとして残しておこうと思い、軽く箇条書き的に書いておく。相変わらず、風呂場はぼくにとって、修験僧にとっての滝なのだ。
・名前 ぼくの名は小林秀雄と吉本隆明とから付けられた。まだ小さい頃、幼稚園かなにかで、あなたの名前はどうして付けられたのでしょう?のようなことを先生から問われて、他の児童が「まっすぐに育つように」、「健やかに育つように」などと返答していて、そういえばぼくはぼくの名の由来を知らないと気づき、帰るとすぐに父に尋ねた。父が言うには、たいへん偉い二人の人の名から付けたんだよ。きみが偉くなるように。偉いっていうのがどういうことかもよく分からず、もちろん小林秀雄と吉本隆明とを知っている児童なんているわけもないから、ぼくはその偉い人っていうのは長いひげを生やしたおじいさんだと思っていた。
 思えば、ぼくの名がぼくの生き方を規定しているように思われるのは不思議なことだ。姓名占いなんて信じないけれど、父が赤子のぼくに名付けたその心持ちでそのままぼくを育てたからか。
 父はスポーツが好きだったが、ぼくに運動をさせようとはあまり思わなかった。父はキャッチボールが好きだったが、ぼくとは決してしようとはしなかった。ぼくにさせたことといえば、バイオリン、絵画、偉人の伝記を読ませることだった。おかげでいまのぼくはすっかり運動音痴で、かつ、野球やサッカーなどの観戦にもまるで興味がない。
 そういえば、ぼくの家系には文に優れた人はいたけれど、武に優れた人というのは聞いたことがない。父の叔父は早稲田の建築科の講師で、別の叔父はシューベルトだとか、なんだかへの情熱的な日記を大量に残し、太平洋戦争で戦死した。いまそういった人たちはすべて物故してしまい、詳細は分からないが、そういうのがごろごろといたらしい。ぼくが文に優れているかどうかはともかく、その方面に興味があるというのは、なんとも不思議な因縁というべきか。
 中学生くらいの頃、結局ぼくの名の由来となった偉い人って誰なんだと、父に尋ねたところ、小林秀雄と吉本隆明の名を聞いた。そのときはなんだか嫌な気分だったけれど、60年代後半、70年代初頭の学生気質が伺われて、いまとなっては興味深い。あのころ、彼らは文学青年に圧倒的な存在感を示していたのだ。
 それにしても、カールだとか、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒだとか、ルートヴィッヒなどと名付けられなくてよかった。
・一方の母方の方は、やくざものぞろいである。ここ何年かで、やはりあらかた亡くなってしまったが、みな魅力的で、その魅力はなにか神話的とも思える人たちだった。ぼくはいつか、その人たちの生き様を中上健次よろしく、小説として書きたいと思っている。時間ができたら、静岡に取材に行こうと思っている。彼らは五代目清水の次郎長の舎弟だった。
・こんなことを書くと、家系、家庭環境による排他的権威主義者だと思われるかもしれないが、そうではない。幼少時の関係が人間を規定することはフロイトが述べている。また、団藤重光博士も人格は環境に規定されつつも、主体性が大きな位置を占めると述べている。
・夜も更けたので、今日はこの辺で。

›7 02, 2005

ウィルコム・その4

Posted by figaro at 02:02 / Category: 雑文 / 1 Comments / 0 TrackBack

 (注:麻衣の部屋風の出だしで)「アクセスログを見たら『ウィルコム』というキーワードでやってくる人がけっこういるんだ」
「そうなんだ。それなら、もっと書いちゃってウィルコムからお金もらっちゃいなよ」
という訳で、、

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 まず、電波の状態ですが、圏外になることはめったにありません。ぼくの行動範囲だと、横浜のビブレが少し悪く、トーヨー街はまったくだめです。逆にビルの中など、携帯よりもよかったりする感じがあります。
 移動時、電車の中で通話したことはありませんが、メールの送受信やwebの閲覧などはまったく問題がありません。通信がとぎれて、ネットができなくなるといったことはいままでに一度も経験していません。ちなみに乗った電車は東海道線、山手線、中央線、東横線、みなとみらい線などです。不思議なのは携帯ではまったく圏外になってしまう地下鉄の駅間でも、かなりつながることです。
 車で走っているときも通話が途切れるようなことはあまりないです。PHSというと、移動に弱いイメージがありますが、それは過去の話のようです。一般道ではもちろんのこと、この前母に電話したら、東名高速に乗っていたのですが(もちろん助手席です)、ちょっとプツプツいいましたが、普通に話せました。
 要するに、電波に関しては、携帯電話とほぼ変わらないと言ってもいいと思います。ただし、山の中とかはだめだと思いますが。
 5月に通話とメールの定額制が始まりましたが、やはりこれが一番のかなめ、携帯電話とまったく異なる点です。電話代を気にせずに会話できるということはとても快適です。かつてauを使っていたとき、かけるときも、かかってくるときも、なんとなく電話代が気になって落ち着いて話せなく、かかってきてもなるべく用件だけ話して手短に終わらせようとしていたのが、ウィルコム同士で話しているとそういうストレスがまったくありません。たいして長電話するわけでもないんだけど、やっぱりそんなストレスを抱えながら会話しても楽しくはないでしょう。
 メールも基本料金に含まれているので、どんな長文のメールや大きい画像データを添付されてもちっとも嫌な気分になりません。従量制の携帯電話を使っていたとき、引用付きでメールを返信されると腹が立ちましたが、いまではどんなメールが来ても少しも気になりません。逆に長文のメールや写真などを送られるとその分得した気になります。
 7月1日からは+2100円でネットも使い放題になりました。京セラの端末にはもともとパソコンのブラウザであるオペラが搭載されているので(ちなみにぼくはパソコンでもオペラを使っています)、パソコン向けのサイトを見ることが可能です。パソコン用のサイトが見れるというのはあまりたいしたことと思われないかもしれませんが、これはけっこう画期的なことです。というのも、携帯電話でニュースやお天気やスポーツ速報(ちなみにぼくはスポーツは見ませんが)をチェックしたり辞書を利用しようとすると、たいてい月々150から300円くらい払う有料サイトを見なくてはなりません。ところが、京セラの端末の場合、パソコンのサイトが見れるので(たとえば、アサヒドットコムや、Yahoo!辞書やニュースや天気やスポーツ)、通信料さえ払えばネット上のあらゆる情報が無料で手に入るのです。かつて、auの社長が携帯のフルブラウザに定額制を導入しようとしなかった理由がまさにここにあります。フルブラウザを定額で使われてしまうと、有料サイトでの収入が減るのです。結局、ウィルコムの定額制におされたかたちで、auもフルブラウザの定額制に踏み切りましたが、社長が自社(あるいは提携している他社)の利益と消費者とどちら向きの姿勢だったかを考えると、auとおさらばしてよかったなと思っています。
 また、金額も大きく違います。ウィルコムは+2100円ですが、auはその何倍です。速度もまた何倍か違うので(理論上は100倍くらい違いますが、体感速度はまさに何倍かなと考えるくらいの差しかありません)、速度を追い求める方は携帯電話の方がいいでしょうが、ぼくはこういった通信などにそれほどお金をかけたくないので、ウィルコムのほうがだんぜん効率的だと思います。
 結論:ウィルコムっていいね
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 それはともかく、こんなことを風呂場で考えていた。
 かれは、、、、
 かれは思った、とんびがらすっているんだろうかと。