›5 24, 2005

花子

Posted by figaro at 03:10 / Category: 日記 / 2 Comments / 0 TrackBack

 猫が死んだ。半年前、いや一年前だったかもしれない、から具合が悪く、症状が悪化すると病院に連れて行った。食欲がなくなり、尿が出ないようで、トイレでライオンのようなうめき声を出す。とにかく具合が悪いのだろうと、病院に行った。腎不全らしい。それで、尿が出ないのだ。
 猫、花子は性格がきつかった。知らない人が家に来るとかむ。知らない人ならまだしも、家人をもかむ。ぼくも何度かかまれ、ひっかかれた。花子が気分よさそうに寝ている。なでる。のどを鳴らし、喜んでいる。ところが、突如ほかの猫になったかのように、かみついてくる。
 まだ若いとき、こんなことがしばしばあった。大輔が朝起きてトイレに行く。すると花子がトイレの前で待っている。大輔をかみ、ひっかこうと待っているのだ。花子を苦手な大輔は大声で妹を呼ぶ。それも朝の5時くらいに。大輔の「トッキー、助けてー」という悲痛な叫びが家中に轟き渡る。
 それでも、端正な顔つきといい、凶暴なだけではなく愛らしい部分もあり、いや、凶暴だったから愛らしかったのかもしれない、家人はみな手に足に傷を負いながらも花子を愛した。
 特に母は花子がまだ赤ん坊だった頃からいつも一緒に生活し、一緒に寝ていたから、愛情もひとしおだったろう。
 花子の具合が悪くなると、病院に連れて行き、病院ではあまりの凶暴さで、入院を断られ、とりあえず治療だけしてもらい、帰宅すると熱心に看病をしていた。
 一ヶ月ほど前、またライオンのようなうめき声を出し、トイレに何時間も座っていた。また病院に行った。そのとき、ぼくと母とではなし合った。あたりまえのことだが、動物病院では健康保険が使えない。治療代はすべて実費だ。具合が悪くなってから花子には何十万という治療代がかかった。金額もそうだけれども、問題なのは、病院に行っても調子がいいのはほんのわずかの期間で、また症状が戻る。あのライオンのようなうめき声にぼくたちはいい加減疲れていた。あまりに苦しそうで、それに耐えることができなかったのだ。
 こんなに続くなら花子もかわいそうだからあのカレーニンのように注射を打ってもらおう。そう言うと、母はそうだねと答えた。複雑な心境なのはその表情から手に取るように分かったけれども、それが最善の策のように思われた。
 にもかかわらず、母は花子に治療を受けさせて帰ってきた。しかし、母を責める気にはなれなかった。
 今日、花子の具合が突然悪化した。まともに歩けない。夕方になると、横になったまま、動かなくなった。母はそんな花子に歯磨きのチューブのようなものに入っている薬を一生懸命飲ませた。その薬には利尿作用がある。尿が出れば、腎臓にある毒素が排出される。はーちゃん、飲んで、飲まないと死んじゃうんだよ。お願いだから飲んで。
 母はそのチューブをまるで魔法の秘薬とでも思っているようだった。そんなことをしてももう無駄なのはぼくには分かっていたが、やはり、ぼくは母がなすままにして、それを制止することはしなかった。
 午後9時10分、花子は死んだ。いつものように気持ちよさそうに寝ていたのが、かっと口を2度開き、死んだ。母は花子を懐に抱きしめ、泣いた。はーちゃん、楽になれて良かったね。

›5 18, 2005

はろー!

Posted by figaro at 08:17 / Category: 日記 / 2 Comments / 0 TrackBack

 麻衣ちゃんがブログを開設した。麻衣の部屋。映画評がおもしろい。夫のダークロも映画評を書いているので、夫婦そろっての映画評。趣味が共通してるのっていいよね。
 今日はとんでもなく早起きをした。2時間ほどしか寝ていない。2時くらいに寝て4時に起きた。本を読もうと、一冊、重くて分厚い本を手にした。数行読んだが、まったく頭に入らない。まったく頭に入らないというのは、正確ではなく、というのもその本は何回と読んでいるから、内容はなんとなく分かっている、読む気になれなかった。
 なにか軽いものを読もうと本棚を見渡したが、軽い本がない。積んである本の後ろに読みかけの『オブローモフ』があったが、読むと悪い影響がありそうなのでやめた。
 そういえば、このごろ、小説やら一般教養的な本をほとんど読んでいない。最近読んだ唯一の小説はダークロの『タイタンの存在者』だ。19歳の時に書いたものだという。才人だ。
 仕方がないので、PHSで2ちゃんを見た。2ちゃんてなんであんなに独特の言葉づかいをするのだろう。前後の文脈からなんとなく意味は分かってもしっくりとこないので、なにか歯がゆい。
 2ちゃんも飽きたので、横に寝ているTにちょっかいを出した。
 きょろぞーさん、こんにちは。
 きょろこー、ごきげんよう。
 (右手を顔の横でふりながら)はろー!
 Tは突然起きて、右手を顔の横でふりながらはろー!と返事をした。


›5 13, 2005

ぞくぞくウィルコム

Posted by figaro at 22:25 / Category: 雑文 / 0 Comments / 0 TrackBack

 昼間投稿したものが、少し正確ではなかったので、書き足します。
 ケータイの使い方が少し変わったと書いたけど、「がらりと」変わりました。
 ピクニック(ウィルコムの料金照会サイト)で確認したところ、今月Tはぼくに8時間以上電話をかけています。と、いまTから電話がありました。このように料金のことをなにも考えずにお気軽に電話できるというのが、いままでのケータイとはまったく違うところです。

以下のニュースを追加

ITmediaモバイル:ウィルコム純増6万――ボーダフォンは4万の純減

FujiSankei Business i. 産業/ウィルコムの4月加入者数、7年ぶりの大幅増(2005/5/12)

ITmediaモバイル:ウィルコム新端末“ジャケットフォン”年内登場か

ITmediaビジネスモバイル:構内システム向けPHS基地局が「免許制」から「登録制」に

MSN-Mainichi INTERACTIVE モバイル
ウィルコム:
PHS復活の“勝算” 音声定額、携帯とすみ分け 八剱洋一郎社長

投資Web
直球緩球 ウィルコム・八剱(やつるぎ)洋一郎社長


ぞくウィルコム

Posted by figaro at 13:49 / Category: 雑文 / 605 Comments / 0 TrackBack

 ウィルコムのPHSを使い始めてから約一ヶ月半。いままで、わが家ではauの携帯電話を3台使っていたが、月に合計19000円ほど払っていた。いま家にはウィルコムのPHSが4台ある。2900+2200*3で合計、9500円。4人ともそれほど他の携帯電話などに長電話をしないから、通話料は3000円くらいですむと思う。仮に5000円いったとしても、合計14500円。3台で19000円、4台で14500円。結局、家計にとてもやさしい電話だ。
 PHSというのはこの定額プランが始まる前から通話料が安いので(データ通信ではずっと独壇場だが)、携帯電話ではなくPHSを使っている人というのはたくさんいた。メールが定額であったり、去年通称「京ぽん」の登場により、パソコンのサイトを自由に見れることができるようになったりして、PHSを使っている人々のあいだで、独特の文化が形成されていることを知った。
 おもしろく、かつ、便利だなと思ったのが、個人が運営している「メール銀河」というサービスだ。ウィルコムのPHSを使っている人なら誰でも使うことができる。「メール銀河」に見たいサイトのURLを送る。たとえば、Yahoo!のアドレス、「http://www.yahoo.co.jp/」を。すると、「メール銀河」でYahoo!をメールにして(テキストとして)送ってくれる。たとえば、こんな感じ。長いのでトピックスの部分だけ引用。

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182⇒トピックス

183⇒JR西社長「建物買い取り慰霊」

184⇒りそな、振り込めで1億返金

185⇒「犬臭い」無免許運転で逮捕
[new]

186⇒味覚が一番鋭いのは若い女性

187⇒W杯予選 北朝鮮にホームの利
[new]

188⇒夢の球速160キロで球団大慌て

189⇒真矢&石黒彩、5年目の挙式
[new]

190⇒一覧

191⇒Yahoo! BB
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 りそなの記事を読みたい場合、このメールに返信して本文に「184」とだけ入力すればいい。すると、そこをクリックしたように、リンク先がまた送られてくる。これを繰り返すと、もちろんパソコンで見ているように、楽に見ることはできないけれども、ただでネットサーフィンができる(ドコモのmovaを使っている人にはぴんと来ないだろうけど、メールは京ぽんの場合2万文字まで受信できる。)。
 ここで、ウィルコムを使っていない人のために音声サービスの概要を示しておこう。


「定額プラン」
 2900円(税込み)でウィルコム同士は通話無料。携帯電話へは30秒、13円(と消費税)、固定電話・IP電話へは30秒、10円(と消費税)。Eメールは受信、送信とも月額使用料に含まれている(つまり使い放題)。
 2台目からはファミリーパック適用で月額使用料、2200円(税込み)。
 パケット代はウェブサイトを閲覧するときに発生する。1パケットあたり、0.02円(と消費税)、6月いっぱいまでは半額。
 7月からは+2100円(税込み)でネットもつなぎ放題になる。ネットつなぎ放題というのは、ドコモ、au、ボーダフォンでも行っているけど、ウィルコム独自なのが、その安さと、それよりも、PCに接続してのインターネットも可能(他社では、PC接続の場合、パケット定額制に入っていても、1パケットいくらと料金が発生する)。

 その他のプランもあるけど、あまり使う人もいないと思うので、割愛します。


 上記の定額プランは今月から始まった。ケータイの使い方が少し変わった。たとえば、家の中ではまるで内線のように使われている。母が「ご飯出来たよ」と電話をしてくる。料金がかかる電話でこんなことをされたのでは、頭に来るけど、無料だと気にならない。Tとの待ち合わせの時もいままでならメールでやりとりをしていたのが、気軽に電話することができる。キビさんとの待ち合わせでもそうだ(キビさんもauからウィルコムに乗り換えた)。Tともキビさんともちょっと気になったことがあったらすぐに電話で確認することができる。いままで、絶対に電話をしてこなかった妹も電話をしてくる(妹はけちなのだ)。

 PHSというと「つながらない」というイメージが強い。ところが、実際に使ってみると、そうでもない、どころか、つながる。念のためにぼくの使った場所を書いておこう。
・銀座、有楽町、日比谷、新橋、浜松町、高田馬場、早稲田、新宿、横浜あちこち、海老名。
 auではつながらなく(つながりにくく)、ウィルコムではつながったところ。
・ヨドバシカメラ横浜マルチメディア館の中、たまに行く自動車関連部品量販店の中、たまに行くホームセンターの中。
 逆に携帯電話がつながってウィルコムではつながらなかったところ。
・母が行った伊香保のさらに奥。伊香保ではつながったらしい。
 また、移動中の通話・通信に弱いというイメージがあるけど、一般道を走っている限り、通話は可能(もちろんイヤホンしています)。電車の中で話したことはないけど、電車の中でもネットは可能。メールの送受信ももちろん可能。
 やはり、過疎地ではつながりにくいようだ。でも、そういうところに行くのは年に数回だし、旅行中なんて逆にこういうものに拘束されなくて良いと考えることもできると思う。どうしてもそれでは困るというなら、携帯電話の一番安いプランに入っていればいいのだが、まあ、ぼくの場合、幸か不幸かそういう状況にない。

 ツーカーのコマーシャルではないけれど、ケータイなんて通話とメールができればいい(ゲームとか音楽とか、そういう付加価値はいらない)と、割り切ればこれほどいい選択肢はないと思う(実は、「京ぽん」(京セラの端末)にはマニアックな付加価値が盛りだくさんとあるけど)。


 以下に参考になりそうなサイトをまとめておきます。

月額2,900円でしゃべり放題、5月1日から音声定額プラン導入 - ウィルコム (MYCOM PC WEB)

ウィルコム定額プランで話し放題 - [モバイル・無線LAN]All About

本田雅一の「週刊モバイル通信」

ケータイ初の定額通話プラン企業では内線電話の代用にも|ケータイ on Business

「ウィルコム定額プラン」担当者に聞く  “音声定額”とウィルコムの新たな戦略

Naokki's memo(なおっきのメモ)

DDIポケットのメールで Web閲覧「メール銀河」

京ぽん用lynx

Bookmarklet(わーい何でもできるぞー!?) - boxon

AIR-EDGE PHONE 情報館

Kyocera AirH"Phone AH-K3001V 周辺技術のまとめ(1) - むぅもぉ.jp

AirWiki: AirH"PHONE/AH-K3001V/Accelerator

ホドガヤの理髪師: ウィルコム

›5 04, 2005

抱かれた子犬

Posted by figaro at 13:20 / Category: 日記 / 318 Comments / 0 TrackBack

  わが家の近くを走る電車は山の多い横浜の谷間を這うように走っている。ぼくの部屋から駅を見ることができるのだけれど、駅の向こうには小さな山があり、その斜面にマンションが階段のようにある。1階、2階、3階、、、と階ごとに段差があり、まるで階段か、段々畑のようだ。こちら側も山になっており、それはぼくの部屋からすると、背後にある。その上には古くて大きな浄水場がある。
 洗面所から出てきて、リビングを見ると、いとこのYが子犬をだっこして、窓の外を見ていた。ふと、妹かと思った。妹は子供の頃からずっとそうしてペットを抱いて窓の外を見ている。
 その一瞬の錯誤がぼくにいろいろなことを想起させた。その個人的な錯誤におちいるのはぼくだけなのだろうが、そのように個々の光景に人がそれぞれさまざまな意味を読み込み、われわれの世界に対する認識というのも個々のさまざまな意味の読み込みによって成り立っているのだろうか。
 そんなことはちょっとぼくには分からないけれど、この青い空の下で、あいかわらずぼくは感傷にふけっている。「内田樹の研究室」でこんな文章を見付けた。

「宿命的な出会いとは、その人に出会ったそのときに、その人に対する久しい欠如が自分のうちに「既に」穿たれていたことに気づくという仕方で構造化されている、と。
はじめて出会ったそのときに私が他ならぬその人を久しく「失っていた」ことに気づくような恋、それが「宿命的な恋」なのである。
「初恋」が「二度目の(あるいは何度目かの)恋」として、眩暈のするような「既視感」に満たされて重複的に経験されるような出会い。
私がこの人にこれほど惹きつけられるのは、私がその人を一度はわがものとしており、その後、その人を失い、その埋めることのできぬ欠如を抱えたまま生きてきたからだという「先取りされた既視感」。
それこそが宿命性の刻印なのである。
だから、どのような出会いも、作為なく二度繰り返され、そこに既視感の眩暈が漂うと、私たちはそこに宿命の手を感じずにはいられない。」

 内田樹は思想家の中でもめずらしく愛を語る。それにしても、それにしてもだ。ぼくが常々書きたかったことはこういうことだった。書かれたものを読むと簡単なようだけれど、書くのは難しい。