›4 30, 2005

新明解

Posted by figaro at 15:36 / Category: 日記 / 3 Comments / 0 TrackBack

 ゴールデンウィーク。天気がいい。当然のことながら、みんな休みのようで、その中でも仕事のTは電車に座れると言って、喜んでいるのか、つまらないのか定かではない。
 Tの作ったキノコシチューを食べる。あまりに多く作りすぎてしまったので(12皿分くらい)、Tはあまり食べないし、ぼくが大食漢のように食べる。まあ、味はおいしい。
 ここ何年かゴールデンウィークはぼくにとってとてもいやな日々だ。
 いや、ぼくはもっとほかのことを書こうとしていたのだけれど。なんだっけな。
 考える。考えるということは独り言にちがいないのだけれど、ずっと独り言を続けていると、ぼくは自分の頭がおかしいのではないのかという恐怖に駆られる。そうして独り言をやめる。空虚な頭というのはなんと居心地がいいのか。
 そういえば、Oさんと話していて、『新明解国語辞典』のことが話題に上った。「めちゃくちゃ主観」で書かれているとのことだった。新明解のことは以前にも書いた。
間違いやすい言葉
 ほかの用件で、三省堂のサイトを見ると、「あの国民的国語辞典が7年ぶりに大改訂」とある。とりあえず、bk1で注文してみた。知らないうちに第6版になっていた。
 大学に入る頃、ぼくは新明解と岩波の国語辞典を使っていた。特に意識することもなく、辞典が必要なときはどちらか手元に近い方を使うという感じだった。ところが、シェークスピアの研究で有名なある教授の授業で、教授は教室に入って来るなり赤い辞典を高々と頭上にあげ、みなさん、新明解の新しい版が出ましたよ、もう買いましたか、と言うなり、「恋愛」の項目をまるで役者のように読み上げはじめた。
「恋愛 特定の異性に特別の感情を抱き、高揚した気分で、二人だけで一緒にいたい、精神的な一体感を分かち合いたい、出来るなら肉体的な一体感も得たいと願いながら、常にはかなえられないで、やるせない思いに駆られたり、まれにかなえられて歓喜したりする状態に身を置くこと。」
 肉体的な一体感ですよ、わかりますか?、分かる人も分からない人もいると思いますが、にくたいてきないったいかんですよ!、常にはかなえられないで、やるせない、やるせないですよ。これは詩ですよ、とはしゃいで、次は岩波の恋愛の項を読む。つまらないですね。これはまあ国定辞典みたいなものです。
 ぼくは詩的な定義に満ちた辞典という言葉に魅了されそれ以来すっかり『新明解』を使うようになった。
 あれから7年。またもや新明解は改訂され、教授はさぞやはしゃいでいるだろうと思ったが、おそらく退官しているだろう。芝居が大好きで、観劇してくると、授業でそのまねをする。ぼくは単位に関係なく、毎年授業に出ていた。たまにだけど。
 で、恋愛の項を見ると、これが改訂されていた。
「恋愛 特定の異性に対して他の全てを犠牲にしても悔い無いと思い込むような愛情をいだき、常に相手のことを思っては、二人だけでいたい、二人だけの世界を分かち合いたいと願い、それがかなえられたと言っては喜び、ちょっとでも疑念が生じれば不安になると言った状態に身を置くこと。」
 肉体的な一体感は削除されたが、これもまた詩的。しかし、どうしてこのように改訂する必要があったのかは知りたい。

›4 24, 2005

ウェンディーズにて

Posted by figaro;cellphone at 20:23 / Category: 携帯電話からの投稿 / 0 Comments / 0 TrackBack
ちず、ケチャップいる?ーーわたしいらないーーおねえちゃん、いるからもってくるねーーねえ、不思議なことがあったのーーなに?ーーあのねぇ、こめこめくらぶってあったでしょーーあ、その話知ってるーー違うの、わたしが19才のときにね、こめこめくらぶがわたしの作った歌、歌ってたのーーそれで?ーーただ、不思議だからーーそういう事、言わない方がいいよ、おねえちゃんの知り合い、そういう事言って逆に留置所に入れられたのーーほんとに?ーーほんとよ、だからそういう事、言わない方がいいよーーそれ、おいしい?ーーおいしいよーーあのね、不思議な事があったのーーなに?ーー窓にね、わたしの書いた詩を置いておいたのーーうん、うちにそんな窓あったけ?ーーちびの部屋だよ、あの窓に詩を置いておいたら、だれかが盗んだのーーほんとに?ーーほんとだよーー不思議だね、でも、あんまりそういう事言わない方がいいよーーうん、わたしじゅんの事言わなくなったでしょーーうん、えらいね、もうあんまりじゅんの事、考えない方がいいよーーコーヒー飲んでいい?ーーおねえちゃん、もうお金ないよーー2000円あったよーー違うよ、お母さんから1000円しかもらってないよーーでも、さっき、持ってたよーー持ってないよーーでも、200円くらいあるでしょ?ーーないよ、計算してみなよーーねえ、コーヒー飲んでもいい? 

›4 15, 2005

ぞく一文・二文

Posted by figaro at 20:30 / Category: 日記 / 11 Comments / 0 TrackBack

 新ドラえもん見た。やはり何十年も聞き慣れた声と違うと別のアニメを見ているようだ。

 ところで、早稲田の一文・二文廃止について。
 二文は正式には第二文学部。第二文学部は夜間だ。夜間学部は他学部にもあった。第二法学部とか、第二商学部とか。それらはかなり前に消えて、残っていたのは第二文学部のみだった。
 夜間学部とはもともと労働者も大学に行けるようにしようという意図で設立された。昼間は働き、夜は大学へと。
 ところが、勤労学生というのはあまりいなくなった。受験生のあいだでは、第二文学部は第一文学部の滑り止めという意味合いが強くなった。実際に一文に落ちて二文に通う学生というのもかなりいた。このことが大学に二文廃止を踏み切らせたのだと思う。
 しかし、滑り止め学部というのは、入学するまでの話で、入ってみると、二文は一文とは違ったなにか怪しげな雰囲気を醸し出していて、夜戸山キャンパスに行くと、昼間とは違う変な人物がぞろぞろしていた(ちなみにぼくは一文出身だが、二文の学生と懇意にしていたので、よく夜にも大学にいて、授業も出たりしていた)。一文の時間と二文の時間では、同じキャンパスでも、いる人種が違う。見るからに変人率が二文の時間の方が圧倒的に多い。
 そもそも文学部とはなにか?という問いは教授からも、われわれ学生間でもしばしば問題になった。文学とは実学ではない。社会を規律する法を研究する法学部や、政治や経済の仕組みを研究する政治経済学部とは対象とするものが明らかに違う。対象とするものは、詩、戯曲、小説といったものだ。そんなものはなくても困らないし、たいていの人はそんなものなしで生きている。しかし、法や経済や政治といったものは、われわれが関心を持たなくても、そこにあり、われわれの生き方に関与している。
 また、文学というものはその研究方法すら確立していない。各研究者は自らの好きな方法で文学を研究する。あるものは文献学的方法により、あるものは現代思想を取り入れて。研究方法が確立していないということは、お互いに議論のしようもない。土俵が違うのだから。つまり、確固とした学問としていまだ成立していない。
 それはともかく、文学部に通う学生というのは、さまざまなものがいる。ごくありふれた学生(たまたま受かったのが文学部)、作家になりたいから通っている、文芸評論家になりたい、美学者になりたい、役者になりたい等。ごくありふれた学生をのぞいて、たいていの文学部生というのは「早稲田の文学部」になにか幻影を求めて入学してきたものが多い。「早稲田の文学部」というものになにかとても素敵な、知的興奮に充ち満ちた場を求めて集まってくる。
 ところが、現実は、文学部とはなにかを悩む教授たちと素敵な場を求めて肩すかしに合う学生たちとが織りなすなにかすかすかした場だった。でも、そのすかすか感がよかった。すかすか感の中で、結局大学なんてどうでもよく、作家になりたいものは自分で書き、役者になりたいものは自分で演じた。二文はそのすかすか感がさらに強かった。
 いまこうして早稲田大学はすかすか感をなくそうとしている。残念だ。

›4 13, 2005

一文・二文消える

Posted by figaro at 20:35 / Category: 雑文 / 0 Comments / 0 TrackBack

asahi.com: 文化構想学部と文学部に再編 早大、07年度から-&〓育

NIKKEI NET:社会 ニュース

早大の「一文・二文」消える・文化構想学部などに再編

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文化構想学部ってかなりいんちきくさい。


ウィルコム

Posted by figaro at 02:58 / Category: 雑文 / 1 Comments / 0 TrackBack

ITmediaモバイル:ウィルコム「電話かけ放題2900円」ができる理由

ウィルコム「電話かけ放題2900円」ができる理由
低料金の音声通話定額プランを打ち出したウィルコム。「携帯電話には難しいはず。我々だからできる」と胸を張る、その理由は……?

 既報の通り、ウィルコムは5月1日から音声定額プランを提供する。ウィルコム端末同士の通話、メール送受信が月額2900円固定になるほか、固定・IP電話への発信が10.5円/30秒、携帯電話への発信が13.125円/30秒と非常に安価だ。
 なぜ音声通話サービスを定額で提供できるのか──ウィルコムが挙げる理由として代表的なのは「マイクロセルネットワークだから」「ITXを導入するから」というものだ。マイクロセルネットワークとは・・・・・


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 KDDIがDDIポケットを外資に売って社名もウィルコムになった。KDDIにいた頃は、auとバッティングするから音声通話で画期的な商品を売り出すことはなかったが、いまはauともライバルだ。そして、ウィルコムは画期的な商品を提供した。2900円で加入者同士では通話料無料。将来的には固定電話やIPフォンにもかけ放題になるようだ。それがどうして可能なのかは上記のリンク先を見てください。
 で、ぼくはそういう現状打破的な商売が大好きだ。ブロードバンドはソフトバンクが当時としては画期的な低料金でADSLに参入したことにより、他社、とくにNTTはそれまで、巨額の投資をしたISDNにこだわってADSLはばかみたいなふざけた料金で提供していたけど、ソフトバンク参入で加速度的に料金が下がり、現状のように普及することとなった。あのとき、ソフトバンクが参入しなかったら、ぼくたちはいまだにダイアルアップを使っていたか、ISDNでとろとろと常時接続をしていたことだろう。キムタクのフレッツのCMを憶えているだろうか?あれはISDNの常時接続のコマーシャルだった。
 携帯電話の使用料金は高い。どこかの記事で読んだところによると、日本は先進国の中で一番高いそうだ。値下げ合戦も今は昔。3社揃って、談合でもしているのかと思うくらい、殿様商売を続けている。去年ソフトバンクがまたもや、風穴を開けてくれるかと期待していたが、うまくいかなかった。でも、べつにソフトバンクでなくてもいい。ウィルコムがやってくれた。
 こういうことは手放しで喜びたい。
 さっそく、加入した。10日ほど使用してみたところの感想を以下に箇条書き。

・音質がすばらしい。ケータイでの音質なんかそんなに気にすることもないと思っていたけど、周りのざわめきや、相手の息吹も感じられるほどの音質だと、なかなか携帯電話には戻れないような気がする。
・メールがただ(5月から。4月は500円のメール放題に加入する必要がある)。メールのパケット代ってけっこうばかにならないから、これもすばらしい。
・携帯に比べて、とくにauやFOMAと比べて、電池の持ちがかなりいい。
・売れ筋の端末、京セラのAH-K3001V、通称京ぽんがおもしろい。見た目はかなり地味なんだけど、いろいろとカスタマイズできる。ブラウザーとしてOPERAを搭載しているんだけど、そこをいろいろといじることができる。まるでパソコンのようだ。このOPERAではPC向けのサイトを閲覧することができる。7月から+2100円でネットも使い放題になる。
・携帯に比べると、圏外になるところが多いという心配があったけど、都市部ではまずない。自動車の走行中も通話可。
・問題は端末の数の少なさと貧弱さ。上記京ぽんも発売が1年ほど前のため、いまの最新機種と比べると少し貧弱。しかし、夏以降に新機種がどっと発売されるようだ。

 そういうわけで、不買運動ならぬ、買運動でみんなでウィルコムに加入し、既存の携帯電話会社にも経営方針を見直してもらいましょう。

購入はこちらで。もしもし本舗.。激安。


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追記
その後はこちらへ
ホドガヤの理髪師: ぞくウィルコム

›4 01, 2005

肌の白さ

Posted by figaro at 02:49 / Category: 日記 / 1 Comments / 0 TrackBack

 Tに色が白いねと言うとほんとうは違うと言う。しかし、多くの人が白いというのだから、おそらく白いんだろうと思う。それでも、Tはほんとうは違うのにみんなわからないだけだと言う。Tはそのほかのことでも、なんとかだね(たとえば、音感に優れているねとか、お嬢様だね)と言うと違うと言う。
 それでは、Tという人間はTが思っているような人間なのか、あるいはT以外の人が思っているような人間なのか。そこまで大げさに言わずとも、Tの肌は白いのか、白くないのか。
 ここでぼくはあらゆる外部(他者)からの印象を否定するTをぼくの稚拙な精神分析を用いて解明しようとしているのではない。ただ単にTの肌は白いのか考えるだけだ。
 肌の白さといってもこれが絶対的に白いという基準があってそれに当てはめて判断するわけではなく、一般的な肌の色とわれわれが思っているものと当のその人の肌の色との相対的な比較判断というか、印象である。そこでTはその比較において自分の肌は白くないと判断し、そのほか多くの人々はTの肌は白いと判断する。いったいどちらが正しいのか。この議論の前提とする「比較判断」からすると、答えは出ない。なぜなら絶対的に白い肌というのが存在しないからだ。すると「どちらが正しいのか」という設問の立て方が間違っているようだ。しかし、こう反論することもできると思う。たしかに、色の白さなどの感覚的なものに絶対的な基準はない。感覚的なものにおいては、多くの人がそうだと思うものが、正しいのだ。すなわち、多くの人が白いと思うものが白いのだ、と。しかし、こういった議論は一定の説得力を持ちながらも、看過できない問題点を含んでいる。というのも、感覚的なものを表現する芸術においては、概してそういった多数者の感覚というものが排され、かつ、個性的な感覚をもって普遍的な感覚を獲得しようと芸術家はもくろむ。
 やはり、「どちらが正しいのか」という問題提起そのものが間違っているようだ。すると問題はどこに存するのか。問題はおそらく、自己認識と他者からの(私に対する)認識とのずれにある。これはだれもが経験するところのものだ。
 ここまで来るといまのぼくにはちょっと手に負えない問題だ。思いつくことを少し書いてみたい。
 おそらく、ぼくはTが何者であるのか、知らないし、知ることもできないだろう。人間になにか本質的で統一的な、表象されるべきなのにいまだわれれれには表象することのできない「人格」というものが存在しないからだ。そこで、ぼくのTの表象というのは、顔、体型、服装、しぐさ、行動、発言、ぼくとTとの関係といったもろもろの個別の要素から成り立っている。そういった要素のなかで、関係が他の要素から区別される。顔、体型などはぼくの身体を通じて認識されるものであるのに対して、関係とは関係そのものに他ならず、自らもその関係の中にいる以上、外部としての顔や体型を認識するようにはその関係を認識することはできない。また関係は常に流動的である。
 思うに「関係」こそが、ぼくのTの表象を規定する。これは卑近な例からも推察することができる。Tがぼくの母親であれば、妹であれば、妻であれば、娘であれば、といったふうに、Tとの関係によってぼくのTの表象は大きく違ったものになるだろう。また、「関係」こそが自己認識をも規定するとも思うが、夜も更けたので今日はこのあたりで。