ありふれた言葉じゃ語りきれない僕の中からきみが
消えてしまう瞬間っていつか本当にやってくるのな?
Long night...朝が来たって何も待ってやしないのに・・・
どうして眠れない・・きみ以外を頭に浮かべられい?
どうして愛し合ったまま別れなきゃいけなかったんだろう?
誰のせいにすればいい?誰のせいにしても・・
2人して肩寄せ合える時間なんてもう過ごせやしないけど
太陽に希望を託していたあの頃・・もう信じられない・・
こんな「詩」を見つけた。ぼくにはこれのどこが詩なのか分からないが。ランダムでいろんなところに飛んでいると、恋愛を扱ったサイトがとても多い。こんなことを言っていいのかどうか分からないけど、そういうサイトを見ていて、ぼくはちょっと怖い気がした。それはこういうことだ。あの人のことが好きで、自分はいま悩んでいる。あの人はどうしたらこっちを振り向いてくれるんだろう、どうしたらあの人の心を自分につなぎ止めておけるのだろう?ほとんどの人が、いま言った同じようなことを、ありふれた言葉でちぐはぐに述べているだけだ。ほとんど、違いがない。あるいは、ぼくにはその違いが分からない。ある人が言った。「自分が誰かを好きになったとか、もてたとか、そういうことは人に言いたくない。そういう問題は、自分にとってはとても大きな問題だけど、人にはとてもつまらないことだから。」
なぜ、人はそういうつまらないことをしがちなのか(ぼくも含めて)。ぼくたちの社会にとって、恋愛とはどのように機能しているのか?
箱根湯本に行ったときのことだった。雑誌に載っていた洋食屋に行った。あいにく閉まっていた。なんでも改装中らしい。行けないとなるとだんぜん行きたくなるもので、支店が国府津かどこかにあるらしいからそこまで引き戻そうかとも思った。でももうお昼をかなり回っていたから引き戻すと夕方近くになってしまうだろう。それで、どこかほかの店を探すことにした。不案内な土地だから歩いてみるしかない。あてもなく歩いていった。ふと立ち止まった。聞き覚えのある音楽だ。忍び車の通ひ路も曇る夕べを思へばほんに粋な月夜でありながら。ここは温泉地だから見番があるんだ。見番で唄のお稽古をしているらしい。若い女性の張りがあって素直でいい声だ。
石畳の猥雑な小道に美しい唄が流れている。こういった経験はぼくたちのような世代には新鮮に映る。一昔前だったら、時代錯誤のとんちき野郎だったろうけど。
日記で誤記を見付けた。こうやってホームページに公開する日記を書くとき、いまの心境や、境遇など、ぼく自身が特定されるような事柄をなるべくぼかして書くよう心がけているので、誤記はすこぶる多い。公開する前に、必ず一通り、目を通して、間違いがないか、はっきりと書きすぎていないか、などチェックするんだけど、見付けられないものもある。敢えて間違いをし、ぼくの中に反逆するぼくがいるように。
で、今日のように、かなり時間が経ってから誤記を見付けたとき、あるいは、直裁に書きすぎたとき、あるいは、あまりにも迂遠に書いたため書こうと思っていたことが、文面から読み取れない、または、他の意味にとれるとき、そのまま訂正しないことにしている。
日記を公開するということはどういうことなのか。最初はとても破廉恥なことだと思った。下品だと思った。それでぼくはホームページを作りながらなにも書かなかった。いまはこうやって公開しているのだからもちろんそう思っていない。公開することを前提に書くと、視点が複数になる。
フロイトも言うとおり忘れるということは何か重要なことを示唆している。ぼくはある時期のことをふっつりと覚えていない。それは繰り返し日記に書いたが。繰り返しといえばぼくはいつも繰り返しだ。この日記でいつも同じようなことを書いている。繰り返し書いているこのことがぼくにとって大切なことなのかどうかはわからない。わかる、わからないで重要性を判断するのならぼくにはわからないことばかりだから、ほとんどのことが重要であり、重要でないのだろう。
父方の伯母が亡くなった。今日、通夜だそうだ。ぼくは行かない。親戚が好きではない。みな奇妙奇天烈な宗教を奉じていて、宇宙人と話すとこんな感じかな、あるいは古代の人々と話しているのか、と大変な違和感を感じる。父の葬式でも変な儀式をやり出して辟易した。般若心経を唱える。般若心経には人生の大切な教えが書いてあるらしい。人生の大切な教えといえばそうかもしれないけど、なにが書いてあるのかたぶん知らないんだろう。岩波文庫から出ている現代語訳なんて見たこともないんだろう。あれを読んでこれは人間にとって偉大な教えである、と思うような人々なら、話してもおもしろいだろうけど。無知蒙昧な原始人が親戚にいると思うとむしずが走る。
亡くなった祖母はそんな原始人ではなく堅苦しいがいい人だった。子供の頃よくかわいがられた。だいたいぼくは利発だったので大人からはかわいがられた。最近はすっかりぼけていたらしい。好きな人のそういう姿は見ないに越したことはない。亡骸だって見なくていい。病気とか死は父のことでもう十分、人一倍経験したような気がする。伯母の亡骸が原始人たちの生け贄になっているのかと思うと腹が立つが仕方がない。彼らは伯母のことを祈るようなふりをして必死に自分たちの「幸せ」を祈願しているのだ。本当の原始人だったらいいのに彼らもまた現代の病にかかっている。「そぶり」を身につけているのだ。
原始人たちは父の葬儀の後、我が家へ押しかけてこようとした。父の降霊をやるというのだ。そんなことは60年代後半、無神論・唯物論の嵐にふらふらと揺られ、そのまま成長することなく永遠の文学青年だった父の生涯をけなすような、茶番にしてしまうようなことだ。ぼくは原始人筆頭にきつく断った。それ以来原始人たちは一切わが家に寄りつかない。だいたいぼくは葬式すらしたくなかった。葬式はするな、と死ぬ間際まで言っていたのだった。なまくら坊主が嫌いだった。父の好きな坊さんは親鸞だ。それから道元だ。わが家が古くから曹洞宗の信徒だったことを、父は少なからず誇りにしていた。曹洞宗は武家が好む宗派であり、わが家は武家であるからだ。そうして家系をよく調べていた。国会図書館などにもよく行った。いい加減な唯物論者だ。
マルクスは読んだことがない。よく言っていた。マルクスはまるで難しくてわからない。おまえなぞは頭がいいから、マルクスくらいわかるだろう。親ばかだった。
聞きかじりのフーコーの話などをよくしていた。酔って。フーコーは、、、。意味が全くわからなかったので内容は覚えていないが。フーコーは、、、ドストエフスキーは、、、トルストイはなんで死んだか知ってるか。酔うと必ず言った。トルストイはなんで死んだか知ってるか。トルストイはなぜ死んだか、世紀の秘密を抱えたまま、父は酔って死んだ。
さて、今頃は原始人たちが饗宴を催している頃だろう。
9万円で買ったフォードフェスティバとぼく。9万円なのによく走る(?)。エンジンが振動するのは気のせいかな。子供の時から刑事コロンボのポンコツ車にあこがれていたので、念願叶った。コロンボ2号と名付けた。コロンボ1号は刑事コロンボの愛車。
Opera Software ASAとウェブブラウザ『Opera』デスクトップ版の国内独占販売契約を締結
ぼくはoperaを購入したんだけど、どうなるんだろう。livedoor怪しげだし。
5/18
今日は久しぶりに飲んだ。飲むと頭が変になるので最近飲まない。頭が変になりたくて前は飲んでいたが、このごろは頭が変になるのがいやでしょうがない。頭が変になると何もできないので、飲まない。友人には飲みながら本を読むという芸当をこなす人がいるがぼくにはできそうもない。できないことはやらない。だから飲まない。
それに飲むと死にたくなる。なにもできない、したくないのではない。死にたくなる。やっかいだ。一度などはそれほど仲のいいわけでもない女性をつかまえて、死にたい死にたいと言って困らせた。酔いが覚めると恥ずかしさのあまりまた死にたくなった。
『パッション』を観てきた。前にもキリスト教について適当に書いたがぼくはキリスト教徒ではない。仏教徒でもない。なに教でもない。なにも信じていない。ただ子供の頃どういう訳かよく聖書を読んだ。小学生になるかならないかの頃ぼくは父の聖書を手に取り祖母の前で読み上げた。福音書のどれかだと思う。祖母は無学な人だった。祖母は若い頃博徒だった。博徒だった祖母はキリストの物語を読み上げるぼくをたいそうほめた。そんなにむつかしいことを言うこの子は末は博士か大臣か。その言葉は何か呪文のようだった。末は博士か大臣か、皆がおそれる祖母にそう言い渡されるのは、古代の人々にとっての神託のようなものだった。そうしてぼくは聖書を読み上げた。一方では岩波から出ている原始仏教の経典を読んだ。中村元訳のスッタニパータ。あたかも蛇が脱皮するがごとく、うんぬん。
忘却王と『パッション』について話した。ありていに言うと、ぼくはたいした感想を持たなかった。だからたいしたことを言わなかった。一番興味深かったことはローマ人がおそらくラテン語を話していることだった。ラテン語を日常会話として話す人々というのを見たことはない。カトリックのお坊さんなどは今でもラテン語を話すのだろうか。『赤と黒』では主人公が必死にラテン語を勉強する。ついにはラテン語で偉い坊さんと会話をするようになる。そういうことが今でもあるのだろうか。なにを勘違いしたのか中学生の頃ぼくもラテン語を勉強した。バラに水を与える、という文章を覚え、格変化を勉強した。
「ケロロ軍曹」を ・・・・・知っているだろうか。。。
先々週から見始めたんだけど、2人共テレビ見ないんだったよね~ m(_"_)m
面白いんだけどなぁ~・・・土曜日の朝10:00(今日はもう終わっちゃったけ
ど)
からやってるんだけどなぁ・・・
まあ気が向いたら見てよ
「チワワやダンサー、借金助長」 日弁連がCM中止要請 - asahi.com : 社会
貸金業者の多くは、刑事罰の対象となる出資法の上限(29.2%)と、罰則のない利息制限法の上限(元本に応じて年利15〓20%)間の「グレーゾーン」と言われる25〓29%の高金利で営業している。
ぼくは銀行も嫌いだが、消費者金融はもっと嫌いだ。
ぼくは人に感情を伝えるのが苦手だ。苦手というか、できない。できた試しがない。それはなにか疎外とかそういう思想的な問題ではない。感情を伝達しなくてはならないようなとき、たいてい、白痴のように知らんふりをしたり、笑ってごまかす。そういうわけで、ぼくはいつも笑っている。しかし、それは、実は困惑しているのだ。人と密接な関係になるとどうしてもなにか発言しなければならないことがある。そういうとき、ぼくはいつも、小説にたとえた。
第一期。ぼくは恋するスタンダールだった。よく『パルムの僧院』を持ち出した。ぼくがファブリスで、相手はサンセヴェリーナ公爵夫人だった。相手はクレリアではない。サンセヴェリーナ公爵夫人だった。才知にあふれた情熱的な女性。
第二期。ぼくは中上健次の兄だった。歌舞音曲に、酒におぼれ、女性にもて、母を恨んだ。この路線では大変な結末を迎えたので、中上健次の兄であることはやめた。
第三期。現在。苦沙弥先生。この路線は人に危害を加えることもなく、自分も楽にやっていけるので、当分の間は苦沙弥先生でいこうと思っている。
5/8
今日も早起きし、朝ご飯を食べると、勉強に取りかかった。一日一食しか食べないので、かなりの量、しっかりとしたものを食べる。それで腹はぱんぱんだ。集中できないのでしばし寝っころがって福田平の本を読む。福田平は対物防衛を認めないのか。そうだったか。すごいな。そのうち、福田平の学説を整理してみようと思った。食べ過ぎは脳によくない。友人の数学者も言っていた。食べ過ぎると頭が働かないと。腹がこなれると机に向かって昨日の続きをした。こうまで頭が冴えるのは何年ぶりだろうか。薬の飲み過ぎか、寝過ぎで何年もの間、ぼくの頭は腐っていたに違いない。しかし、頭は一つしかないので、本当にここのところ冴えているのか、去る何年間ぼけていたのか、判然としないが。
夜も更け、そろそろ寝る時間になった。だらだらと続きをやるのはよくないと最近になってやっと悟ったので、気分転換になるような本を探した。枕元にある近松の文庫を手にする。岩波の曾根崎心中。この本には譜が付いている。義太夫を詳しく知らないので、またその譜は簡単なものであるので、音楽を想像することはできなかったが。三味線の手も書いてある。何となく想像がつくのは三重という手だ。しかし、この曲は廃曲になっているし、何しろ300年以上も前のものだから、われわれにはその音楽がどんなものだったかいくら考えたって想像の域を出ない。心中という行為は日本独自のものだとどこかで読んだことがある。事の真偽は知らないが。まだ若いころぼくは心中に憧れた。憧れたというよりもぼくは心中すると決まっていた。徳さまとおはつはなにゆえ心中するのか。心中に至る原因はしっかりと書いてある。それを、原因(不義理)と結果(心中)というふうに読むと、なんとも変で陳腐なはなしだ。しかし、ぼくは心を打たれた。二人は心中すると決めていた、それを欲していた。心中することによってしか二人の「愛」は成就しないことを知っていたのだ。浄瑠璃に精緻な心理描写などない。それでかえって親近間を覚える。
あまりに早起きをしたので昼寝をした。30分くらいだったろうか。うらうらかな春の日に惰眠をむさぼっていた。うとうととしていると、だれかが体の横を通り過ぎた。ふらふらと机に向かっていく足取りが見えた。見覚えのある歩き方だ。動かない頭をどうにか机のほうに向けた。かのじょの顔を見ることはできなかった。なにかぼくに話していた。聞き覚えのある声だ。なにか言いたげだが、ぼくにはよく聞こえなかった。その人の体を見ると影が薄いなと思った。そういうことは日常、起きているときには感じないことだ。物理的に影が薄いのだ。
起きると、いやな感じがした。『雨月物語』のようだ。「菊花の約」だったかな。しばし、過ぎ去った日々を思い起こし、たばこがないので、買いに行くことにする。

考えていた。なんにも手がつかず、考える時以外は本を読んだり、あるいは寝ていた。澁澤龍彦の『エロスの解剖』をぺらぺらと読んだ。短文集なので読みやすい。考えた。邪推がひどいような気がする。こういう問題に関しては理知が全く働かなくなる。それどころか不穏な活発をしめす。反動分子。ぼくのなかのジャコバン派。かのじょは本当に仕事だったんだ。だからあんな声の調子だったんだ。なのにぼくは悪いことをした。信じないなんて良くないことだ。寝た。『ホモ・サケル』を手にした。意味がわからないので流し読みしたらさらにわからないので投げた。寝っころがっていた。激しい妄想が脳裏を占領している。久しぶりに頓服の安定剤を飲んだ。4回分も飲んだからか『オデュッセイア』と『比較不能な価値の迷路』を手にしながら寝ていた。10時ころ起きた。メロンパンを餓鬼のようにほおばりまた寝た。味は覚えていない。起きると携帯にかのじょからの着信履歴があった。かけたけど出なかった。ジャコバンは激しい闘争を続ける。
手で絞るように足をマッサージする。自分でやるとあまりきもちよくない。やっぱり人にやってもらうのがいい。オイルを塗るといいらしい。エステティシャンに聞いた。セルライトを取るのにはマッサージが一番。機械はあまり効き目がないんだって。片足しかやってないけど疲れた。体操しないとね。
ダイスケが風呂の扉を直したので、母のヌードを見るかもしれないという恐怖はなくなった。
それはともかく、今日は憲法記念日なので、普段は考えないが、憲法について若干考えてみた。
「国益と君が代」・東京都教育委員会の「日の丸・君が代」強制に抗議する参照。
「思想には税金がかからない」ということわざがある。なにを考えようが、国家はその個人に干渉しない、すべきでないということである。
また日本国憲法は19条で「思想および、良心の自由はこれを侵してはならない」と定める。
憲法について、いかなる立場をとるにせよ、規定がある以上、憲法によって授権された機関は憲法に反するいかなる行為を行ってはならない。国家(政府)も地方自治体も憲法によって授権された機関であるから、すなわち憲法を前提にしてその正当性が認められるから、憲法の規定に違反する行為を行うことは自己矛盾、自殺行為である。
思想および良心は内心にとどまるかぎり侵してはならないのかどうか。東京都教育委員会処分事件におけるように外部に現れた面をも保障するのか。内心にとどまるかぎりの保障と考えると、19条は骨抜きになる可能性が高い。というのも思想および良心は本質的に発露、行為、表現を伴う。
教員が卒業式において国旗に敬礼しないこと、国歌を斉唱しないことはかれの思想および良心に基づく行為である。かれの思想および良心が妥当なものかどうかは問題ではない。かれはかれの思想および良心に基づき国旗に敬礼せず、国歌を斉唱しなかった。
問題は二つある。ひとつは東京都教育委員会は事前に「入学式、卒業式等ににおける国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について(通達)」と「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱に関する実施指針」を各都立校に送り思想および良心に密接に関連する行為を強制しようとしたこと。そして、事後に通達と指針に違反した教員を処分したこと。
教育委員会の事前の行為は明らかに19条違反であり、事後の処分は、19条違反かつ人の内心の思想信条そのものを理由として不利益扱いしてはならないという14条違反であると思う。
東京都教育委員会の行ったことはぼくの目には突出した出来事とは思われない。犯罪の増加に伴って処罰は厳罰化の方向に向かっているし、これまで犯罪ではなかったものが犯罪化されている。イラクの人質事件ではわれわれの渡航の自由・表現の自由という権利の危機はほとんど問題にならずに、人質になった人々の責任追及論が横行している。人々は強力な権力を求めているようだ。なにか社会問題が起きるとすぐに行政の責任、不作為を問題にする。政府にそれだけ過大なものを要求するということは同時にわれわれの政府への服従を意味している。ぼくはこういうことはたいへん危険な傾向だと思う。
かなり怪しげ。
ところで、最近好調。
早稲田を卒業した知人と話す。同じく第一文学部。先輩だ。なにかの研究をしているらしい。社会学だとか。どこかで教員をしているのか、学生が学問に全く興味を示さないことを嘆いていた。ペットを失って傷心らしい。ぼくと同じくロッシーニ好きだ。ロッシーニは食いしん坊だ。スタンダールの『ロッシーニ伝』のことを話す。スタンダールはロッシーニが食いしん坊とは書いていないので、食いしん坊になったのは引退した後なんだろう。そういえば、『ロッシーニと料理』という本にこんなことが書いてある。
「短期の滞在でヘーゲルが見たオペラはメルカダンテ『ドラリーチェ』、スポンティーニ『オリエンピエ』、モーツァルト『フィガロの結婚』、それにロッシーニの『オテッロ』『ゼルミーラ』『セビリアの理髪師』『マティルデ・シャブラン』などであるが、彼はルビーニ、ドンゼッリ、ラブラーシュら、そうそうたるイタリア人歌手の声の素晴らしさに圧倒され、彼らの〈火のような強烈なワイン〉に比べれば、ベルリンの歌手は〈粗野で薄弱なビール〉のようなものだと印象を述べている。ロッシーニの音楽についても最大級の賛辞を呈しており、二度見た『セビリアの理髪師』をモーツァルトの『フィガロの結婚』より優れているのではないかとさえ思った。」(『ロッシーニと料理』新版180頁)
これを読んだとき、ヘーゲルの美学ってけっこう卑俗だと思って安心した。
ADHDという病気(?)の人のはなしを聞く。注意散漫でだらしがなく約束を守らず部屋が汚いらしい。ぼくのこと?と思った。
その後、インターネットで下調べをした本を買いに横浜駅の専門書を扱う本屋に行った。立ち読みして、買うのをやめた。くだらない。ネットで買わなくてよかった。その代わりというわけではないが、待ちに待っていた本が出版されているのを見付け、購入した。先日、図書券をもらったので、ロブ=グリエの『反復』を買いに有隣堂に行った。平岡篤頼先生訳の新刊だ。無い。サロートの『生と死の間』も無い。無いというか、外国文学コーナーにはなぜか今更『薔薇の名前』が平積みしてあり、そのほか、オースターの本があるくらいだった。横浜随一の本屋がこんなんだとは横浜市民てほんとに馬鹿なんだなと思いつつ、文庫コーナーに向かう。岩波の『ザ・フェデラリスト』と高橋源一郎の『ジョン・レノン対火星人』を買う。
エクセルシオールカフェに行き、ひたすら勉強。ひたすらというか、気づくとかなりの時間が経っていた。いつものように耳栓をし。気分転換に『ジョン・レノン対火星人』の解説を読む。文庫の解説って難しいよなと思いつつ、内田樹はあいかわらずうまいなぁと嘆息。