›4 17, 2006

銭湯通い

 久しぶりの更新で、すいません。  おそらくだれも更新を期待してはいないと思うけど、一応謝罪しておきます。  更新していなかったのには一応理由があって、それは生活環境ががらりと変わったからです。どう変わったのかはおいおいと書きます。たぶん。でも、このブログで「いずれ書く」と言っておいて書いたことはないんですが。  テレビを観る時間もないほど忙しいんだけど、といってももともとぼくはテレビをあまり観なかったけど、今日はN響アワーを観た。モーツァルトとショスタコーヴィチの特集だった。モーツァルトは生誕250年。ショスタコーヴィチは生誕100年。比較し共通点を探るということだったけど、共通点としてあげられていることはなんだかよく分からなかった。まあ、そんなもんだろう。モーツァルトは「ハフナー」、ショスタコーヴィチは「革命」。どちらも中学生くらいの時、よく聴いた。音楽というのは不思議なもので、聴くと当時のことをよく思い出す。音楽が記憶を呼び起こすのだ。それもふつうの記憶となにか違って、五感を伴う記憶を。  その後、銭湯に行った。家の給湯機が壊れてしまって、ここ何日間銭湯通いだ。一人で、もちろん周りには他に客がいるが、湯船につかっているといろいろなことを考える。  以前も書いたと思うけど、われわれの人生はあまりにも短い。たとえば、ぼくは学部の卒論を書き直したい。テーマが広がりすぎて、うまくまとまらなかった。そして、今でもその事柄に関して興味を有しているので、あんなゴミくずのような物を到底容認出来ない。  大学に8年間も通っていたのには様々な要因があるけれども、卒論も一つの要素だった。納得のいく物を書きたい、しかしテーマがテーマだけに構想をたてては破棄し、一からやり直しの繰り返しだった。ぼくは英文科にいたけれども、解釈の手法として精神分析を用いたので(げんに精神分析批評というジャンルはある)、担当教授も訳が分からず、というのも英文科の教授はある種の批評理論に疎いというか極端に言うと敵視すらする風潮があったので、教授も大変だったと思う。おまけにぼくは少し病んでいた。にもかかわらず、教授はたいへん面倒をみてくれたのでいまでもたいへん感謝している。  卒論を書き直したい、また卒業後、漱石の高等遊民のようにのんきに関心・分野を広げ本を読みあさっていたので、どう考えてもそれらを網羅することは出来ない。そういう意味で人生は短いと言うのだ。  アルトゥール・カウフマンは『法哲学 第二版』でブルックハルトを引用している。 「諸科学では、‥専門家としてしか大家であることが出来ないし、またそうあるべきである。しかし、‥自らの負担で自分の認識を増強し、諸々の視点を豊かなものにするために、なおできるだけの多くの別の場所で、人はディレッタントであることが求められるであろう。そうでなければ、ひとは、専門性を超えるすべてについて無知であ(る)。‥しかしディレッタントにとっては、彼が諸事物を愛するがゆえに、様々な場所でもまた自らがまことに深められることが、おそらくは彼の生活の流れのなかで可能となることであろう。」  知と人生の有限性については岩波文庫から出版されているカントの『啓蒙について』のどこかに書かれています。興味のある方はどうぞ。


 写真は大学院の建物の横。気分がよくなる、爽やかな香りに満ちていた。


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