›7 27, 2005

論理学

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 友人Mの勧めでカール・ポパーの自伝『果てしなき探求』を読む。
 第4章「本質主義に関する長い余談」の「いかなる(トートロジカルでない)言明、たとえば理論t、の内容も無限である。その理由はこうである。ペアでは相矛盾し、ひとつづつではtを導出しない、諸言明a、b、cの無限のリストがあるとする。そうすると、『tまたはaまたは両者』という言明はtから導出でき、それゆえtの論理的内容に属する。同じことは、bについてもいえる。・・・・したがって、tの論理的内容は無限でなければならない。」ここで、突っかかってしまい、なにが言いたいのか分からず、ポパーもそのあとすぐ、この「論証は取るに足らぬものである。というのも、それは論理学上の(非排他的な)『または』の瑣末な操作にもとづいているからである。」と述べているし、本を置いた。
 必要があり、最近ぼくも論理学を少しだけ学んだ。現代論理学の主流である記号論理学では、日常言語の曖昧さを排するために、文章を記号を使って表現する。記号論理学によると真偽を論じうる文章(命題)は次の5つのみの論理語で記述することが可能である。
 1.否定(・・でない)
 2.連言(かつ)
 3.選言(または)
 4.条件(ならば)
 5.同値(pとqは同値である、というふうに使う)
 たとえば、「かれは演奏家であるが芸術家ではない」は「かれは演奏家である」をP、「かれは芸術家である」をQと記号化し、「PかつQでない」とする。「あなたが生きているかぎり、わたしはあなたのそばを離れない」は「あなたが生きている」をP、「わたしがあなたのそばを離れる」をQと記号化し、「PならばQでない」とする。
 なぜこのようなことをするのかというと、「かれは演奏家であるが芸術家ではない」という命題(真偽を論じうる文章)は、「かのじょは美しいが才人ではない」などのように無限に考えうる諸命題と論理的に同じ構造をもつからである。演奏家とか美しいとかいった日常語を排し、記号化することによってその真偽をより容易に判断することができる。すなわち、「PかつQでない」が全体として正しいと言える場合は、Pが真で、Qが偽の場合だけだ。
 ポパーの上記の文章は3番目にある「または」を用いて、ある任意の理論が無限の内容を持つものであることを証明したものだが、いったいこんなことにどんな意味があるのか分からず、Mに聞いてみたところ、なんとなく要領はつかめた。
 ところで、あたかも英語を習いたての中学生がTシャツかなにかに書いてある変な英語を見付けて喜んでいるかのように、論理学を少しかじったぼくも論理がぶっとんでる文章を見付けて喜んでいる。
 7月4日付けの産経新聞の第一面に石原慎太郎の「日本よ」という文章が掲載されていた。石原慎太郎はいつもぶっ飛んだことばかり言っていて、前から好きだったんだけど、この文章もやはりぶっとんでいる。
 「靖国問題」についての論考で、まず、こう言う。「『靖国』は・・それを必要とする者にとってはいわば本質的価値の表象であって、歴史への解釈云々といった次元の価値観で左右されるものでありはしない。・・敗者勝者の言い分それぞれあろうが、それが嫌な者、見解を異にする者はただ靖国に行かなければいいのだし、他人事と黙っていればいい。」ここでも、本質的価値の表象とか、引用していないが「時代や立場を超えて垂直に貫かれていくべき信条の唯一の証し」とか意味の分からない言葉が羅列されており、どういうことなのか聞いてみたいが、もっと不思議な箇所がある。続けてこう述べる。「『靖国』は彼女の人生を支える芯の芯なるもの、心意気の象徴としてあったに違いない。それを誰を、何が無下に否定できるというのだろうか。」そういう人々がいることはぼくも知っている。たしかに、そういう人々に「靖国」に行くなと言うのは、まさに非常識、破廉恥、愚劣な行為だ。
 ところが、ここで議論がすっ飛ぶ。個人に「靖国」に行くなと干渉することはおかしい、だから、首相も「靖国」に行くべきだ、中国に干渉されるべきでない。はて?すぐに分かるように、個人のはなしと、首相のはなしとでは次元がまったく違う。首相が「靖国」に参拝することが問題になっているのは外交上の懸念や、憲法の政教分離原則と抵触しないかといった事柄である。彼女が「靖国」に行くこととはまったく別のはなしで、彼女のいわば「信仰の自由」にまつわる情緒的なエピソードは首相が「靖国」に行くべきかどうかの理由にはまったくならない。
 そもそも、彼女が「靖国」に行くことを阻むのはおかしいと彼女の「信仰の自由」を強く擁護しながら、行きたくない人は黙ってろと言い、靖国や護国神社に親族をまつられて、とても困っているキリスト教徒などもおり、裁判にまでなっているが、そういう人々の「信仰の自由」は「黙ってろ」でどうでもいいようで、国家神道を復活すべきだとの主張が裏に見え隠れする。
 文章がとてもうまいので、ついつい納得しがちだが、考えてみるといろいろと疑問の湧く不思議な人だ。また、そこが魅力なのだろう。


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