Tに色が白いねと言うとほんとうは違うと言う。しかし、多くの人が白いというのだから、おそらく白いんだろうと思う。それでも、Tはほんとうは違うのにみんなわからないだけだと言う。Tはそのほかのことでも、なんとかだね(たとえば、音感に優れているねとか、お嬢様だね)と言うと違うと言う。
それでは、Tという人間はTが思っているような人間なのか、あるいはT以外の人が思っているような人間なのか。そこまで大げさに言わずとも、Tの肌は白いのか、白くないのか。
ここでぼくはあらゆる外部(他者)からの印象を否定するTをぼくの稚拙な精神分析を用いて解明しようとしているのではない。ただ単にTの肌は白いのか考えるだけだ。
肌の白さといってもこれが絶対的に白いという基準があってそれに当てはめて判断するわけではなく、一般的な肌の色とわれわれが思っているものと当のその人の肌の色との相対的な比較判断というか、印象である。そこでTはその比較において自分の肌は白くないと判断し、そのほか多くの人々はTの肌は白いと判断する。いったいどちらが正しいのか。この議論の前提とする「比較判断」からすると、答えは出ない。なぜなら絶対的に白い肌というのが存在しないからだ。すると「どちらが正しいのか」という設問の立て方が間違っているようだ。しかし、こう反論することもできると思う。たしかに、色の白さなどの感覚的なものに絶対的な基準はない。感覚的なものにおいては、多くの人がそうだと思うものが、正しいのだ。すなわち、多くの人が白いと思うものが白いのだ、と。しかし、こういった議論は一定の説得力を持ちながらも、看過できない問題点を含んでいる。というのも、感覚的なものを表現する芸術においては、概してそういった多数者の感覚というものが排され、かつ、個性的な感覚をもって普遍的な感覚を獲得しようと芸術家はもくろむ。
やはり、「どちらが正しいのか」という問題提起そのものが間違っているようだ。すると問題はどこに存するのか。問題はおそらく、自己認識と他者からの(私に対する)認識とのずれにある。これはだれもが経験するところのものだ。
ここまで来るといまのぼくにはちょっと手に負えない問題だ。思いつくことを少し書いてみたい。
おそらく、ぼくはTが何者であるのか、知らないし、知ることもできないだろう。人間になにか本質的で統一的な、表象されるべきなのにいまだわれれれには表象することのできない「人格」というものが存在しないからだ。そこで、ぼくのTの表象というのは、顔、体型、服装、しぐさ、行動、発言、ぼくとTとの関係といったもろもろの個別の要素から成り立っている。そういった要素のなかで、関係が他の要素から区別される。顔、体型などはぼくの身体を通じて認識されるものであるのに対して、関係とは関係そのものに他ならず、自らもその関係の中にいる以上、外部としての顔や体型を認識するようにはその関係を認識することはできない。また関係は常に流動的である。
思うに「関係」こそが、ぼくのTの表象を規定する。これは卑近な例からも推察することができる。Tがぼくの母親であれば、妹であれば、妻であれば、娘であれば、といったふうに、Tとの関係によってぼくのTの表象は大きく違ったものになるだろう。また、「関係」こそが自己認識をも規定するとも思うが、夜も更けたので今日はこのあたりで。
Tは色が白いのではなく
周りの人が黒い(もしくは濃い黄色)のでは
ないでしょうか?
そうすればTは白いではなく、
薄い、に当てはめることができると思います。
Tにとっての白い人、と言うのを聞いてみたいとこですね。
Posted by: キビ at 2005年04月01日 18:22