›1 21, 2005

羽左衛門の「勧進帳」

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 十五世市村羽左衛門が富樫をつとめる昭和18年上演の幻の『勧進帳』が発売(ビデオとDVD)されていることを知ってさっそくアマゾンで注文した。配役は七世幸四郎が弁慶、六代目菊五郎が義経、前述のように十五世羽左衛門が富樫。長唄は杵屋栄蔵社中。
 せりふや長唄、囃子を聞いているだけでも、心地よい。こういうときに日本人に生まれて良かったと思う。ある英語を母国語とする人がシェークスピアを見て英語が母国語で良かったと言ったのと同じだろう。
 この『勧進帳』は映像で見ることのできる『勧進帳』の中では最高のものと一般には言われている(明治初期に生まれた人は九代目の弁慶はあんな風ではなかったと言ったそうだが、ぼくたちには知りようもないことだ)。
 「かように候うものは加賀の国の住人富樫の左衛門にて候う・・・」という名乗りであれだけぞくぞくできるのは羽左衛門のほかにはいないだろう。せりふ回しから立ち姿まで、お見事!の一言。戦前に「抱かれたい芸能人ランキング」というのがあったとしたら羽左衛門はずっと1位を保持しただろうと思う。
 その後、この三人は相次いで亡くなり、海老様や松禄の時代を過ぎ、芸の水準は下降をたどる。それを確かめるにはもう一つ発売されている『勧進帳』を見ればいい。
 また、長唄連中もいまとはずいぶん違う。栄蔵の三味線は豪快で、しかし、繊細でもある。最初の大薩摩のところ、トーンテンテンというところで、栄蔵は勢い余ってばちをほかの糸にもかすめてしまう。こういう事はいまでは考えられないことだ。いまではなによりも正確さが求められ「気分」が犠牲にされる。


 こうして、歌舞伎のことなど書いていると、ついつい、われわれ日本人は外国のものを知るよりも、まずさきにわれわれ自身のことを知るべきだという、右翼的な言説を述べたい欲望に駆られる。現にロラン・バルトは『記号の国』(『表象の帝国』)で日本について、誘惑的な日本について述べているが、、、、などと。そのような言説は不思議な魅力、求心力を持っている。そのような言説はおそらくある程度正論で、ある程度の説得力を持っている(たとえば、母国語より外国語がうまいということは原理的にありえないと思う)からというのもその原因のひとつだろうか。しかし、「・・べきだ」という論述は、意見であって、政治的だ。その意見にはなんらの根拠も示されない。ぼくたちはなによりも押しつけがましいことが嫌いだし、政治的であることを隠した政治的論述も嫌いだ。
 それにしても、ぼくたち日本人がだれも『記号の国』のような美しい本を書けなかったということは考えるべき問題のひとつだと思う。ぼくたちは「日本は・・」、「日本人は・・」と語ることにたいへん抵抗を持つ。なぜなのか。


ロラン・バルト著作集 7 記号の国
ロラン・バルト〔著〕


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