›6 11, 2004

パルムの僧院

Category: 雑文 / 0 Comments: Post / View / 0 TrackBack

・《もう四十五になったわたしが、少尉でさえ赤面しそうな無分別をやらかすとは!》……彼はまた劇場にひきかえすと、三列目の桟敷席を買おうという気をおこした。二列目の桟敷に伯爵夫人が入ってくるはずだから、そこからなら、誰にも気づかれないで、入ってくるところをゆっくり見おろすことができよう。たっぷり、二時間待たされたが、この恋する男にはそれほど長くは思えなかった。誰にも見られていないのを確かめると、彼は楽しげに、この狂気の沙汰にふけりはじめた。
・「あなたに夢中ですとお誓いしたら、嘘になりますわ。三十をすぎたいま、二十二の昔のような形で恋ができたらあまりにも幸せすぎます。いつまでも続くと思っていたものが、ずいぶん滅びでしまったんですもの!あなたは大好きですし、どこまでも信頼いたしますし、男の方のうちではあなたが一番好きですわ」
・「わたしの生涯はずいぶん長かったが、この生涯を閉じようとする死だって、おまえと別れるほどつらくはないだろう。わたしは財布をギータに預けておく。金がいるときはその中から使うようにさせるが、万一おまえが来て、ほしいといえば、残りを渡すように言っておくつもりだ。わたしはあの女を知っている。そんな風に言われたら、あれはおまえのために倹約して、おまえがはっきり言っておかない限り、肉などは年に四度も買わぬだろう。おまえにしても、貧乏しないとはかぎらない。そのときは、わずかばかりだが、おまえの古い友人の金が、役に立つかもしれぬ。」
・ごらんのとおり、ファブリツィオは自分自身の想像力でわが身を苦しめる、あの不幸な連中の一人だった。
・この短い問答の間にも、憲兵たちに取り囲まれたファブリツィオの態度はあっぱれなものだった。それはまことに誇り高く上品な表情だった。ほっそりとした華奢な目鼻立ちと、唇に浮かべたさげすむような微笑が、取り巻いている憲兵たちの粗野な様子と奇妙な対象をみせていた。だが、いってみれば、こうしたことはすべて彼の顔のうわべの表情にすぎない。ファブリツィオはクレリアの天使のような美しさにすっかり心を打たれ、目は驚きをそのままあらわしていた。彼女のほうは、深いもの思いにふけったまま、窓から顔を引っ込めるのを忘れていた。彼は敬意を込めた微笑を送りながら、彼女に黙礼し、ちょっと間をおいていった。
「前にも湖のそばで、憲兵と一緒においでになるときにお目にかかったような気がいたしますが」
 クレリアは赤くなった。あまり狼狽したので、なんと答えたらよいか言葉が見つからなかった。《あんな粗野な人たちに囲まれながら、なんという気品のある態度だろう》ファブリツィオに挨拶されたとき、彼女はそう考えていたのだ。深い同情の気持ち、さらにいえばほとんど愛情といってもいいような感情にひたっていたので、なにか適切な言葉を思いつくだけの機転がきかなかった。押し黙っている自分に気づいて、彼女はいっそう赤くなった。ちょうどそのとき、城塞の大門のかんぬきが乱暴に引き抜かれた。
・ラッシ検事総長の来訪が告げられた。伯爵はほとんど横柄といってもいいくらいの尊大な態度で迎えた。
「どうしたということなのだ、わたしが面倒を見ている陰謀家を、ボローニャでかどわかせ、そのうえその男の首を切りたがっているというのに、わたしに一言の挨拶もないというのは!わたしのあとに誰が首相になるのかぐらいは知っているであろうな。コンティ将軍が、それとも君自身なのか」
 ラッシはうろたえた。上流階級の人間と付き合うことになれていない彼には、伯爵が本気でしゃべっているのかどうか、見当がつかなかった。彼は真っ赤になり、なにかわけのわからないことをぼそぼそと口にした。伯爵は彼をじっと見つめ、その狼狽ぶりを楽しんでいた。と、急に、ラッシは気負いだってアルマヴィーヴァに悪事の現場を見つけられたフィガロのように、ひらきなおって、声を張り上げた。
「それでは伯爵さま、閣下にはまわりくどいいい方はよしましょう。聴罪司祭に告白するように、ご質問にお答えするとして、なにをちょうだいできるのでしょう。」
「サン・パオロ勲章か金だ。出すか出さないかは君のほうで口実を作ってくれればいい」
「サン・パオロ勲章のほうにしていただきたいものです。それだと貴族になれますからね」
「ほう、検事総長。君は貴族などというわれわれの肩書きをいまだに尊重しているのか」
・その翌日は、さらに幸福だった(恋とはどんな惨めなことでも、幸福に変えてしまうものなのだ!)。
・《もちろん、あの人が死刑になったら、あたしは修道院にはいり、この宮廷の社交界にはもう二度と顔出ししないつもりだ。あのひとたちはみるのもいやだ。行儀のいい人殺しじゃないの!》
・フェルランテはおさえきれぬ感激のままに答えた。
「お言葉は無用です。わたくしは用いる手段ももう決めております。あの男が生きていることには、これまで以上に我慢できなくなりました。と申しますのも、あの男が生きている限り、もう奥さまにお目にかかれないからでございます。貯水池決壊の合図をお待ちしております」
 そういって、彼はだしぬけに一礼すると、すぐに出ていった。
 公爵夫人は彼が歩いていく姿をじっとみていた。
 次の部屋にはいったところでよびとめた。
「フェルランテ!なんというすばらしいひとだ!」
 彼は、ひきとめられるのがじれったいというようすで、引き返してきた。この瞬間の彼の表情はすばらしかった。
「あなたの子供たちはどうなるのです?」
「あの子たちは、わたくしよりも金持ちになるでしょう。奥さまがあるいは年金をくださるかもしれませんから」
 公爵夫人はオリーブの木でできた大きな箱を彼に差しだした。
「さあ、あたしが持っているダイヤの全部です。五万リラの値打ちはあります」
「奥さま、それはわたくしに対する侮辱です!………」
 フェルランテは、ぞっとしたように体を震わせていった。顔つきがすっかりかわっていた。
「決行までは、あなたに会うことはもうないと思うのです。おとりなさい。ぜひそうしてほしいのです」
 と公爵夫人はいった。その堂々とした姿に、フェルランテは完全に圧倒された。彼はその箱をポケットに入れ、部屋から出ていった。
 彼はまたドアをしめた。すると、公爵夫人がふたたび呼びとどめた。フェルランテはいぶかしげな顔をして、戻ってきた。公爵夫人はサロンの中央に立っていた。彼女は男の腕の中に身を投げた。一瞬の後、フェルランテは幸福のあまりほとんど気を失いかけた。夫人はその抱擁をすり抜けて、目でドアを指し示した。
・聖ジェロラモの二つ折本の欄外をびっしり埋めた書き込みを、あっさり覚え書きなどといったのは、ファブリツィオもずいぶん謙遜したものである。この本を教誨師に返したあとで、いずれは別の本と交換できるかもしれないと考えた彼は、毎日毎日牢獄内の出来事をもれなく、この書物の余白に、きわめて正確な日記をしておいたのだ。毎日の大きな出来事とはいっても、それは神への愛(この神への、という言葉は、書くことをはばまれる他の言葉のかわりに使われていた)の与える喜びにほかならなかった。あるときは、この神への愛のために囚人は深い絶望におちいり、またあるときは、大気を通して聞こえてきた声にいくらかの希望がよみがえり、至福の喜びを感じることもある、といったしだいだった。こうしたことは、幸いにも葡萄酒とチョコレートと煤の牢獄用インクで記されていたので、ドン・チェザーレはこの聖ジェロラモの本を書棚に戻すときにも、ちらりと目を通したにすぎなかった。もし彼が書物の欄外に書かれたことを全部読んでいたら、ある日、囚人が、毒を飲まされたと思いこみ、この世でもっとも愛した人から四十歩と離れぬ場所で死ねることを喜んでいるのを知ることができたはずなのだ。だが、善良な教誨師とは別の目が、彼の脱獄後このノートを読んでいた。愛する人のそばで死ぬという美しい考えが、さまざまな形で書かれ、そのあとに、ひとつの十四行詩(ソネット)が書いてあった。この魂はつらい苦悩のあとで、二十三年宿ってきたはかない肉体を離れ、かつてこの世に生きたすべてのものにそなわる、幸福を求める本能に導かれ、自由になって、おそろしい神の裁きにより罪の許しを得ようと、ただちに天に昇って天使の合唱に加わろうとはしないだろう。現世の時よりも、死後にいっそうの幸福を得た魂は、長らく苦しんだ牢舎のほうに向かい、この世でもっとも愛したものとひとつになるだろう。「こうしてわたしは地上に楽園を見いだすであろう」とこの十四行詩(ソネット)は結ばれていた。
・「わかっています」つんとした態度でクレリアは答えた。男は彼女を制止する勇気がなかった。二十歩ほど先に行くと、ファブリツィオの独房に通じる六段の木の階段のしたに、もう一人の番人がいた。赤ら顔のよぼよぼの老人である。これがきっぱりした口調で彼女にいった。
「お嬢さん、長官の許可書をお持ちでしょうか」
「あなたはあたしを知らないの?」
 クレリアはこのとき超自然の力に動かされていた。自分がなにをしているかよくわからず、ただこう考えていた。
《わたしは夫を救うのだ》
 老番人が、「しかしわたしは役目がら……」などと叫んでいるあいだに、クレリアはすばやく六段をかけあがっていた。ドアに向かって走った。大きな鍵が鍵穴に入っていた。やっとのことでその鍵をまわした。そのとき、千鳥足の老番人が彼女の服のすそをつかんだ。クレリアは激しい勢いで独房の中に入り、服が引き裂かれるのもかまわず、ドアをしめた。老番人が後を追って中に入ろうと押してドアを押すので、そばにあった挿し錠をかけてしめた。独房を見渡すと、ファブリツィオは夕食をのせた小さなテーブルの前に腰をおろしている。クレリアはいそいでかけよってテーブルをひっくり返すと、ファブリツィオの腕をつかみながら聞いた。
「もう食べたの?」
 こんな風になれなれしいいい方をされて、ファブリツィオは驚喜した。すっかり動揺しているクレリアは、初めて女性としての慎みを忘れ、自分の愛情をみせてしまったのだ。 ファブリツィオは危険な食事をこれからはじめようとしていた。彼はクレリアを両腕にかきいだくと、いたるところに接吻した。
・彼女が最後に言った言葉があまりにも意外だったので、ファブリツィオはその意味を悟って喜ぶまでにしばらく時間がかかった。クレリアはひどく腹を立てて逃げてしまうだろうと彼は考えていたのだ。やっと落ち着きをとりもどすと、ファブリツィオは一本だけの蝋燭を消した。クレリアのいおうとすることは理解したつもりではあったが、客間の奥に向かって進みながら、彼はぶるぶる震えていた。彼女は長椅子の後ろに身を隠していた。手に接吻したら、彼女が腹を立てるかどうかさえ、彼にはわからなかった。彼女は恋心に全身を震わせ、彼の腕の中に飛び込んできた。
「ファブリツィオさま、どうしていままで来てくださらなっかたの!…
・評判の高いP・夫人が、むかしもてはやされたチマローザのアリアを歌い出した。
 あのやさしい瞳よ!
 はじめの数節は、ファブリツィオもじっとこらえていたが、やがて怒りは消え失せ、どうしようもなく涙があふれ出てきた。
 
(小林正訳・集英社世界の文学版)

Comments
Post a comment












Remember personal info?