確信犯の問題については感慨深い思い出がある。ぼくがいまあるのは一冊の本を読んだからだった。団藤重光博士は『刑法綱要総論』で刑法上、責任が認められるためには「期待可能性」が必要だと説いたあと次のように述べている。
「第三に確信犯人は、つねに期待可能性がないことになる、とされる。しかし、かれを行為に駆り立てるのは、付随事情や人格的能力の弱さではなくて、かれの世界観--それが社会性を持つにせよ--である。したがって、それは、実は、期待可能性の問題ではない。それは『義務の衝突』の一種のばあいであるが、法的義務と超法的な義務ともいうべきものとの相克、法的価値といわば超法的価値との相克である。かれの世界観が法によって是認されないかぎり、かれは法による非難を免れない。かれみずからも、茨の冠を覚悟の上で行動する--しなけれならない--のである。確信犯人は法秩序の内部では救済されない。」(団藤重光『刑法綱要総論』第三版330頁)
また、法と道徳との関連性について説いたあと次のように述べている。
「第五に、右のことは、法と道徳との間にラートブルッフのいわゆる『悲劇的な葛藤』の可能性のあることをも、含蓄している。かれの指摘するとおり、法の規則的性格、道徳の確信的性格から現れる確信犯人は、そうした法・道徳の悲劇的葛藤の典型のひとつである。もし、その犯人のいだいている信条が将来、法によって是認されるにいたったあかつきには、かれは先見の明を持った英雄であったことになり、かれは自己を犠牲にして法の発展に寄与したことになるが、しかし、現時点においては、かれの行為はどこまでも犯罪である。犯人は自己の道徳的義務にしたがって反抗を敢えてし、裁判官は法的義務にしたがって--場合によっては涙をのみながら--犯人を処罰しなければならない。ラートブルッフが『悲劇的』というのは、そこに法・道徳のそれぞれの本質に根ざす根源的な葛藤を見出すからである。」(団藤重光『法学の基礎』39頁)
こういう文章読んじゃうと、法律勉強したくなっちゃうね。知的にスリリングだ!
何とな~く通り過ぎてきたモヤモヤした部分をスカッとさせてくれる書物に出会ったときの喜びは、本当に筆舌に尽くしがたい。